死神そーご
外は宵の月。秋風もそろそろ本格的な冷たさを増してきた頃合だった。
段々と肌寒くなってきた空気に人々は早々家に引き返してしまい、こんな時間ともなると人気が全くない。夜道をぽっかりと浮かんだ不気味な赤い月が見下ろして嘲笑っている。
土方はそんな夜道をよろよろふらふら頼りない足取りで歩いていた。頭の中ではガンガンと鐘が鳴り響いて、心臓が駆け足で脈を打っている。鼓動が早い。関節という節々が痛い。頭痛に片手で額を押さえたが気休めにもなりやしなかった。
土方十四郎という人間はあまり酒が強い方ではなかったが、時々何もかもを酔いに任せたくて自棄になって杯を重ねる時があった。今日の悪酔いもそれが原因で、先ほどの酒場でも近藤が止めていなければ意識をぶっ飛ばすまで呑んでいたことだろう。
舌先に残った酒のにおいに露骨に顔を顰める。
と、急に胸から込み上げてくる嘔吐感に土方は口元を手で覆い焦った。いくら何でも人様の軒先の下でゲロを吐く訳にもいくまい。
抑えろ、耐えろ俺ッ!出来ることなら飲み込んじまえッ!
気合と理性でなんとかせり上がってくる物を押さえ込み、土方はふらふらの足で方向を変え、細い路地裏を抜けてその先へと目指した。記憶では確か川があったはずだ。
目の前が開けて川沿いの土手に出た土方は、そこを降りぼうぼうの丈の高い草が生い茂る中へと構わず分け入り、ここなら誰にも見られないと安堵したところでとうとう我慢出来ずに吐いた。
胃の中が空っぽになるまで吐くと、次が胃液で、口の中に苦味を広がせて尾を引くとやっと嘔吐感は波を収める。酒なんて気分を浮かせて夢心地にしてくれるが、その場だけで、弱い者は一定の線を越えると毒だ。頭は痛ェし吐くし悪循環にしかならない。つくづく思う。遣る瀬無い。
土方は不快な苦味を消し去るべく川の水で口を漱いだ。月は赤くとも光源には違いない、川を覗くとひどい顔をした己の姿が映っている。それを見て、土方の顔はなお歪む。
最近、何もかもが上手くいかなかった。
土方は近藤の道場で子どもや大人に剣術の指導をする仕事をしていた。大人といっても門下生の半分以上は子どもで、近藤が子ども好きなことから剣術の指導はそこそこに大半は一緒になって遊ぶのが毎日の常だった。(この時の土方は事務処理をしたり縁側に座って近藤と子どもたちの様子を眺めて過ごしている)
子どもはどうにも苦手だが、教えることは性に合っているようで苦ではなかった。指導が終わればその日の仕事も終わったようなもので、暇を持て余すほど忙しさと掛け離れた楽な仕事である。その上近藤の屋敷の離れを自由に使わせてもらっているから、食費だけ自分で賄えばいいだけの、至れり尽くせりの何不自由のない生活だった。
ここまで近藤によくしてもらっているのだから、これといった不満はない。
しかしどうしてだろう、満足でもなかった。
何ともいえない虚無感が土方の奥底で疼いているのだ。
俺は一生をこうして過ごしていくのだろうか。
もっと他にやるべきことがあるんじゃないのか?
俺の渇きを癒す何かが、きっと、あるはず。
持て余した暇を持て余すほど、物足りないと何かが訴えていた。けれどその先に広がるのは漠然とした疑問で、土方は自分が何をやりたいのか何をしたいのか、今も全く掴めずにいる。
悩んでも答えが出ない毎日。嫌気が差して酒に溺れようとしたのに、結局酔えず仕舞いで、水面に映る己の顔のああなんと情けない事か。
「何がしてェってんだよ、俺は…」
苛立ちにばしゃんっと水面を叩きつける。揺れる波紋と歪んだ己の姿を見た土方は家に帰るべく踵を返した。明日も同じような毎日が待っているのだと思うと気が滅入るが、帰らないわけにはいくまい。
と、その途中で土方は足元に小さな石碑があるのに気付いた。丈の高い草に隠されるようにひっそりとあるそれは、やはり誰からも気付かれていないのだろう、ほとんどが苔に覆いつくされて風化していた。
屈んでよく見てみれば、彫ってある字も削れていて読むことが出来ない。ただ表面に付いた土を親指で拭えば末字に“神”と刻んでいるのが辛うじてわかった。
「こんなところで放っておかれるなんてとんだ見捨てられた神サマだな」
それがなんだか世界から取り残された今の己のようで、土方は自嘲気味の薄笑いを浮べる。
「神サマっていうんなら、何でもいいから俺を助けてくれってんだ」
土方はそう言った。そして馬鹿馬鹿しいとククっと咽の奥を鳴らす。神頼みをするなんざ、よほど俺は酔っている。
その時だ。
(あーあ。誰かと思えば、次の相手は酔っ払いですかィ)
突如耳元で響いた誰かの声に土方は大きく肩を揺らした。同時に冷たい手が背中を伝って、後ろから抱き締められたような感触にぞわりと肌が粟立つ。土方は振り払うかのように大きく手を回し勢いよく立ち上がった。
回した手に誰かがぶつかった感触はなかった。
ただ振り向いた先に、距離を置いて少年がひとり気配もなくそこに居た。まるで闇と同化しているかのようにひっそりと佇んでいる。
「勝手に人のテリトリーに入らないでくれやすかィ? これだから酔っ払いはいけねェや」
「…誰だ…、お前」
「誰って、あんたがさっき土下座までして拝んだ神様ってやつでさァ」
茶化した口調に土方は思わずツッコむ。
「いや土下座なんてしてねぇよ。勝手に捏造するんじゃねぇ」
そこではたと気付く。
「って、あ? 神サマだ…?」
「へい。あんたそこで御参りしていきやしたでしょ」
少年が指を指した先に視線をやると、古びた石碑がぽつんとあった。確かに、先ほどあの前でぶつくさ言ったが、だからと言ってなんで神様なんて大層なものがいきなり出て来るのか。
いやそれよりもこのガキが神だって…?
「あんまし人を見た目で判断しねェ方がいいですよ」
不審な目で見遣れば自称神様は肩を竦めて、土方の方へと近づいてきた。あんたが御参りしたんで出てきたんでさァ、と言いながら何故か足が動かない土方の前でこくりと可愛らしく首を傾げる。口角を上げるとガキのクセに顔が妙に整っているせいかそれがひどく魅惑的に見えて、土方は目が離せない。
子どもは言った。
「だからあんたの命、貰いに来やした」
「…は? 神サマつーんだから助けてくれるんじゃねェの」
「神頼みで何でもなると思いなさんな。世の中そんなに甘かねェですぜィ」
子どもはずいっと動けない土方に顔を近づける。不敵な笑みを浮かべて嗤って言う。
それに俺は神様は神様っつっても、
「死神ってもんでさァ」