死神そーご
道場は人の足音が絶えなかった。ドタバタと慌ただしく響き、古道場の床が軋む。
道場の中から聞こえるのは子どもの高い声ではなく、大人の低い掛け声。活気と熱気に包まれて俺は昼寝どころじゃなくて、物珍しげにその様子をただ見ていた。
呪呪繋ぎが失敗して、俺は最初の願いどおり土方さんの命を頂戴することになった。
男はもうあと少ししか生きられないというのに妙に生き生きとした表情をしているのが俺としてはとても理解できなかった。なんとも言えない心情になる。
俺はこの男を助けようとした。生かしてやりたいと願ってしまった。全く、死神とは思えない考えだ。
けど俺自身そんなことを思ったのは初めてで、正直どうすればいいのかなんてわからなかった。だから俺のない知恵を絞って呪呪繋ぎを実行したというのに、それも失敗してしまった。他ならぬ助けたいと思ったこの人間の手によって。
呪呪繋ぎはもう出来ない。元々使ってはならない手だった。土方さんには大神様が作ったルールだと言ったが、本来そのルールも『第一条。一度聞き入れた頼みは絶対也』というのが主で、第二第三はルールというよりもやってはいけない禁忌に近い。実行すればリスクも伴うのがその証拠だ。
「神様の死は忘れられることだ」と人間が言う通り、俺たちにも“死”はある。人間と違うのは、その長さは限りない無限に近い有限だということと、人間間で言われる“死”というよりも消滅に近いということだ。雲が薄く消えかかって青空に混じるように、俺たちは消えていく。それが死だ。第二条、第三条のリスクは消滅が早まることだった。第二条よりも第三条のほうが払うリスクは高くなる。当たり前だ。第一条と相反することをしようとしているのだから、自然とハイリスクになる。
両方とも実行した俺はかなり死期が早まったはずだ。もしかしたらあと少しで俺は消えてしまうかもしれない。聞くところによると予兆もなくぱっと弾けるように俺たちは死んでいくらしいから、残された時間はわからないけれど。そして人間にとってそれが長いのか短いのかも不明だ。
「もう他に大神様が決めたルールというのはないんだろうな?」
あの夜の日、ひと騒動が終わった後土方さんは俺にそう尋ねた。何故そんなことを聞くのかと問うと、これ以上勝手なことをされない為だとごにょごにょというもんだから俺は笑ってしまった。いいえと返事をする。本当は第四条まであるのだが、しかしそれを使う時はないだろう。俺はこの男を見守ることにしたのだからもう不要だ。あともうひとつ第零条というのがあるらしいが、俺はその詳細を知らない。
結局とばっちりを受けただけの山西はこの町から出て行った。この道場には何かが取り憑いているだの呪われているだの叫んでいたが、山西が道場破りと繋がっているという手口もバレてこの町に居られなくなったらしい。
近藤道場にも人が戻ってきた。彼ももう心残りがないことだろう、残り数日をまた前のように平穏に送って終わるのだろう。そう思っていたのだが。
道場には大勢の町の男たちが集まって、竹刀を振るったり地図を広げて討論を繰り返している。
なんでも戦が始まるらしい。政府がこの町を攻めてくるのだそうだ。否攻めてくるというのは語弊あるだろうか、この町が貯水場の場所として目を付けら、それに反対した町の人との小競り合いだと言っていた。
俺はこの町が好きだ。だからなあトシ、一緒にこの町を守ろう。との近藤さんの言葉を受けて、土方さんも参戦することにしたようだ。全く、数奇な星の下に生まれたものだ。次から次へと事が起きている。
土方さんは策士としての才を見込まれ、戦の指揮をとるためにあっちに行ったりこっちに行ったり奔走している。合間に経験がないに等しい同胞たちに剣の修行をつけていたりもした。朝から晩まで息をつく暇もないほど動く土方さんを、俺はずっと見ていた。この男の命もあと少し。そんなことを微塵も感じさせないほど男は今を輝いている。
人は終わる直前、満開の花を咲かすように生きる瞬間があるのだという。例えられるのは病気を患った時だが、この男のこれもそれに似たようなものかもしれない。花を満開に咲かせようとしている。そして最終的にはその花を刈り取るのが死神としての自分の役目だ。
「アンタって運が良いのか悪いのかわかりやせん」
「全くだな」
準備も滞りなく終わり、ついに明日、戦が始まる。ちょうど余命が尽きる日だ。よくそこまで偶然が重なるものだと俺は呆れる。線と線が繋がるほど奇妙なことはない。
土方さんと俺は縁側に座って酒を肴に月を眺めていた。アンタ酒弱いんじゃねェの?と問うと、たまにはいいだろうと笑う。
「浴びるように呑んだって良いことありやせんぜ。それでアンタ俺に目ェ付けられたんですから」
「ああ、あの時は完全に酔っ払ってたな。悪酔いして気持ち悪かった」
「ゲロ吐いてましたもんね」
「見てたのかよ」
「見えたんでさァ」
げぇっと眉をしかめて、土方さんは酒を煽る。杯に継ぎ足してやると土方さんは一口口をつけて月を見上げた。ほろ酔い気分で若干赤みを帯びた横顔を俺は見つめる。
「全くてめーに会ってから散々だ。余命は宣告されてガキの遊び相手にされて剣ではコテンパンにされて、お前は俺のプライドを傷付けてばっかだし」
「そんな些細なことで気付く柔な精神じゃねェでしょう。踏んづけてもなぶっても燃やしたって踏ん張って生き続ける雑草のくせに」
「いやさすがに燃やすのはマズいだろ」
「むしろ痛みを糧に生きるたちじゃねェんですかィ?」
「…てめー遠回しに俺をマゾみたいに言うんじゃねェよ。今わかった。お前のそれはただの嫌みだ」
「誉め言葉ですよ」
じとりと土方さんの闇色の目が俺を見るから、笑って月を見上げる。近寄ってこっちを覗き込んでいるような、綺麗でデカい満月だった。
「アンタは神経が図太いんです。そうじゃなきゃ俺みたいな死神を人間みたいに扱ったりしやせん」
「図太いは余計だ」
「じゃあ人とずれているんですよ。どこの世界に死神に惚れる野郎がいるんですか」
「ここ」
土方さんは照れたように不貞腐れたようにそっぽを向いて一言呟いて黙りだ。大の大人が何照れてるんですかと指を指して盛大に笑ってやった。
ああもうウルセェとやけ酒を呑んで、頑なに俺と目を合わせない土方さんを見ていると、俺は妙な気持ちになる。感じるはずのない温もり、胸の内がほんわりと温かい。こんな想いをするのは初めてでその正体すら分からなかったけれど、決して嫌な気持ちではなかった。
「でも良かった」
笑った余韻で口角を緩めたまま黙って月見をしていると、暫く間を置いて土方さんがポツリとそう溢した。ちらりと一瞥だけして俺は月に視線を戻す。
「何がです?」
「酒が弱くて」
「開き直りですか」
「そうじゃねえよ」
土方さんがそう言って笑った。何故だろう、この時俺はとても穏やかな気持ちだった。風の音も虫の声も隣の男の笑い声さえも、俺の中で心地よく響く。目を細める、このままずっとこの時に浸っていたいとさえ思えた。
後ろに置いていた手の袖を土方さんがちょいちょいと引っ張るものだから何気なく土方さんのほうを見やる。やんわりと抱きしめられる。俺ァ目をぱちくりと瞬く。囁くように土方さんが言う。
「酒に弱かったおかげで、お前に出会えた」
「えらく楽天的ですねィ。酔いの代償が死神に目ェ付けられるなんてとんだ笑い草でさァ」
「うるせえな。まあでも、そのおかげで見えたもんもある」
後ろ頭を撫でられてそれが気持ちよく思えて俺は目を細める。なんとなく猫を思い出した。掠めるようにキスをされる。少し距離を空けて男が言う。自信と希望が満ちたその目は今日のように満月に照らされた夜空のようにほのかに明るかった。
「明日で最後だ」
「最後の最後で大舞台ですかィ。明日一日でアンタの余命は尽きるんですから、とっとと終わらしなせぇ。そうしたら俺がアンタの命を貰いまさァ」
「ああ、終わらせてテメーの面見て死んでやるよ」
そこで言葉を区切って、土方さんはまっすぐと俺を見つめる。
「だから俺の生きざまを見ていてくれ」
覗き込むように顔を近づけてくるから俺は目を閉じる。口づけを交わしながらまた抱きしめられて土方さんの鼓動を直に感じた。脈打つ鼓動、吐き出される息、熱、この男を構成するすべてのものを覚えておこうと、知らず知らずなぞるように俺は記憶に刻み込む。こういう場合、人間なら泣いたりするものだろうかとふと思った。人間ならもっと上手く感じることが出来て温もりを言葉をもっと直に感じることが出来るのだろうか。この口づけの意味もわかるのだろうか。
明日で死ぬというのに生き生きとしている土方さんが俺には理解できない。けれどそれ以上に眩しくて俺は言い表せない感情を持て余す。奪うのは俺だから悲観的になるのは間違えだ。
こんなにも輝き生きる姿を見せつけられて俺はどうすればいいのだろう。人間が羨ましくて仕方ない。
目を開けると平野に朝靄が広がっていた。その向こうに霞んで見えるのは丘陵の線を埋めつくすように広がる政府の軍勢。戦いの合図を待っている。否どちらかが動かなければ動けない、一定の距離を開け俺たちは睨みあったまま、そんな息が詰まる緊迫な状況下の中でいた。
天候は晴れなのか曇りなのか判断がつきにくい。太陽が雲に隠れているのか厚ぼったい雲が空を支配しているのか、それさえも分からないほど靄が多い。まるで雲の上にいるようだと誰かが言っていたが、本当にその通りだと思う。
刀を握り直す。じんわりと汗を掻いてきた。けれど敵から目は離さない。離したら敗けだとさえ思う。真剣を持ったことなんて数えるぐらいで、それ以前に人を斬ったことなんてあるはずもなかった。
怖いのかと問われれば間違いなく俺は首を立てに振るだろう。きっとここにいる全員がそうだ。恐怖を感じない狂った奴なんざ少なくとも俺の世界にはいやしない。
息をする。けれどそれを押さえ込んでここに立っているのはそんな恐怖さえも凌駕する高揚があるからだ。俺はきっとここにいる誰よりも覚悟がある。自惚れではなく確信さえもある。
俺は今日死ぬ。それが証拠だ。勝っても負けても逃げて生き延びても俺の命は明日の日の目を見ることはない。全てを捨てる覚悟ではなく全てを捨てた覚悟、後ろを振り向くこともなく道が途切れるまで前を見て突っ走るのみ。本当の意味での最期の大舞台に、俺は回路が壊れたようにただただ興奮していた。
(アイツに無様な様を見られないようにしねェとな)
どこからか見ているだろう死神を思い浮かべて、自然と口が緩んだ。俺の腰には構えている愛刀とは別に刀がもう一本差してある。死神の刀だ。町から出る間際に死神は刀を差し出して俺に渡すと、ニヤリと笑った。
「時間は今日いっぱいまでです。戦の間は刀をアンタに預けておきやすから、途中で俺に狙われるんじゃねェかって心配は無用ですぜ」
「別にンな心配してねえけど」
「まァまァ。それじゃあ行ってきなせェ」
とんっと背中を押されて振り向くと死神はもう居なかった。多分戦が終わるまでは姿を見せないつもりだろう。あれはアイツなりの気遣いだったのだと、今なら分かる。全く素直じゃない神様だと俺は笑う。
真っすぐと前を見て、敵を見定めた。
これで最後だ。雲間から日が差す。俺の晴れ舞台にして死に舞台。刀を握りしめて深く息を吸う。これで、最後。
さあ盛大に暴れてやろうじゃねえか。
「行くぞッ!!!!」
俺の掛け声に呼応するように後ろに控えていた町人が鬨の声を上げる。
幕開けは一瞬だった。雪崩れるように突っ込む。
人にぶつかろうが前に誰が居ようが関係なかった。道は自分で切り開く。刀をただ夢中で振るい斬りかかってくる刃を払い声を上げて俺は戦う。その瞬間を生きる。俺の腕なんて大した剣術もなければ死神に数日鍛えられただけの、焼き付け刃だ。所詮田舎者の古道場の居候。政府で一から指導を受けている奴らの腕に適うとは思っていない。けれど田舎者にも田舎者の根性と意地がある。そしてもう突っ走るだけの俺を止められる奴等いやしない。俺には失うものがない。俺に残されたことはデカい花を最後に咲かせるのみ!
「退けェェェェエ!!!」
ただ無我夢中で刀を振るった。
敵も味方も分からない。
俺たちの仕事は真正面から敵を切る特攻隊だ。
カーンと鐘の音が響いて左右から挟み込むように近藤さんたちが奇襲を掛けて敵は乱れに乱れる光景に、勝算が見えた。
小競り合いをしていると薙ぎ払われて愛刀がびゅんっと高く空に飛ぶ。
敵が上から構えて斬りかかってくるから咄嗟に地面に刺さっていた誰のものかわからない刀を抜いて隙だらけの胴体を横に一閃する。
息が乱れる。
まだ生きている証拠だ。
ふと汗を拭って見渡した先、色のある鎧が目に入った。敵の大将だとすぐに分かった。また駆け出して邪魔ものは切って一直線に敵の親玉に斬りかかる。振り向いて受け止められてけれど怯まない。攻防を繰り返す、それがすべてだった。何も考えられなかった。ただひとつわかったことは血が煮えたぎるように熱いということだけだった。
大将の刀を受け止めた瞬間、パキンッと、乾いた音が響く。
受け止めた個所から刀がひび割れ折れる。
信じられない気持ちでそれを見ていた。
そのまま刀が振り下ろされる。殺される。…咄嗟に身の内に沸き起こる恐怖はなんだったのか。
獣のような雄たけびを上げて腰に差してある刀の鯉口を切るとそれで敵の咽仏を貫いた。血肉は柔らかいのにひどく重い感触が手に残る。同時に大将が振り下ろした刀で肩を切られて鋭い痛みが走る。構わず力を込めて死神の刀に力を込めて押しこむ。大将の目が白目を向いて、泡を吹いてその場に崩れた。荒く息をつきそれを見下ろす。その時だ。
ぐしゃり。後ろから何か押されたような気がした。ゆっくりと自分の体を見下ろすと腹から刀が飛び出していた。最初は何がどうなっているのかわからなかったが、グッと再度力を込められ抉られる痛みに溜まらず呻く。後ろから刺されたのだとそこでやっと理解した。
死神の刀を拾い後ろに向かって一閃する。俺を刺した敵の体は斬ったが後ろに振り回した反動で体を支えることが出来なくて俺はそのまま倒れた。背中から倒れないようになんとか横向きで地面に転がり、呼吸というよりかは発作のような息を繰り返す。自分でもわかる。虫の息だった。
顔を上げることすらままならない。情けない。たった一発後ろからグサリとやられただけでもう再起不能だ。生理的に出てきた涙で霞んだ視線の先では入り乱れる足や俺と同じように倒れた屍が転がっていた。
砂埃が舞う。
怒声が止まない。
まだ終わっていない。
へたばるな。
立て!
奮い立たせ刺さったままの刀を抜こうと力を込めた。なんとか鞘の部分を持つことが出来ても手が震えるだけで何も出来ない。仕方なく抜くことは諦めて俺は腕を踏ん張って立とうとするが、これもなかなかうまくいかない。その時気力と根性だけが俺を支えていた。吠える。叫ぶ。すべてが燃えてもいいと思った。このまま燃え尽きていい。だから立て。アイツに無様なさまを見せてたまるかッ!
ゆらりと立ちあがり死神の刀を拾い立ち憚る敵を薙ぎ払う。斬る。頭の中でいろんなことが記憶がざぁっと海のように流れていた。
そうしてどれくらい経ったのだろう。数十分だったかもしれないしたったの五分だったのかもしれない。何人かの敵を切ったところでぐらりと視界が揺れて、俺はまた倒れた。息をするのも絶え絶えで目もよく見えない。朝靄はとっくに晴れたはずなのに、俺の視界は濃い霧に覆われていた。寒気がしてだんだんと体が冷えていく気がした。
ああもうこれで終わりなんだって、ふと他人事のように感じる。もう立とうとは思えなかった。
(死ぬのか…)
漠然とそう思う。
そんな時だった。ぶれた視界の先でこっちに歩いてくる足がひとつあった。
ぼんやりと目だけを動かすと傍まで来た死神がじっと俺を見下ろしていた。戦場だというのに誰からも見えていないのか、座り込んで手を伸ばすと俺の髪を撫でる。正直もう耳も遠くて周りの音も無音に近かった。けれど死神の声は普段と変わらず聞こえてくるのが不思議だった。死神は手を引っ込めると顔に付いた血をぐいと拭って平坦な表情で言う。
「見てやしたぜ。アンタの生き様ってやつ。腹に刀刺さってもしぶとく生きる、まさにアンタそのものの生き方でしたよ」
「…がっ、」
「…もう喋れませんか」
静かに言葉を落として、死神はくしゃりと顔を歪める。初めて、辛そうな顔をしていると感じた。
どうした?なんでそんな顔をするんだよ。
そう聞いてやりたいのは山々だったが、言葉をしゃべろうとしてもひゅーひゅーと息が零れるだけだった。無理に力を入れようとするものなら血がこみ上げて余計に苦しくなる。それでも視線は外せなくて、俺は死神を見つめた。
死神は落ちていた自分の刀を拾うと、それを見やって地面に置く。
「人間っていうのは全く理解しがたい生き物ですよ。強かったり弱かったり、儚くも見えればどんな雑草よりしぶとい。優しかったり眩しかったり綺麗かと思えば、ずる賢くて汚くてこんな風に争ったりもする。俺ァ人間の考えることなんてよくわかりやせんが、でもこの戦も、大事なモンを守りたいっていう表れなのかと思うと美しくも見える」
「………」
「土方さん。アンタは立派でした。俺ァ土方さんと一緒に居て楽しかったです。だから、やっぱ思っちまうんでィ」
死神が穏やかに笑った、気がした。もっとその声を聞いていたいしもっとその顔を見ていたいのに、瞼が落ちてしまう。もう一度開けることさえままならない。限界だった。
(ああもういい。お前に全部くれてやる)
声に出来ないから心の内で告げる。きっと神様にはすべてお見通しだ。俺の声だってきっと聞こえているに違いない。だからあげると。もう狩っていいよと言ってやる。
くすりと笑う気配がした。土方さん、俺ァアンタのことが嫌いじゃない。その言葉を最後に、俺の記憶はぷつりと途切れる。
「『第四条。我の意を持ち全てを捧げる。力は逆。我の願いを叶えよ』」
死神はそっとそう呟くと、もう開くことのない男の瞼の上にそっと口付けを落とし、唇を合わせる。そして傍らに落ちていた刀を掴むと地面に置いた自分の刀に向かって突き刺すように振り下ろした。パキンッと音を立ててガラスのように刀が割れる。風に乗ってさぁっと消えていく。死神の体もまた、空気に溶けるように消えていく。死神はじっと息を止めた男を見つめていた。返事がないのを承知で話しかける。
「アンタは勝手なことをするなって言いやすけど、俺はやっぱりアンタは生きるべきだって思うんでさァ。だって世界中どこを探したってアンタみたいな馬鹿はいやせんから、貴重なんですよ」
そう言って笑う。返される言葉がなくて物足りない。けれどもう時間がない。さらりと頬を撫でて死神は空気に溶けながら尚も話し続けた。
「第四条のリスクは俺の存在自体。一回こっきりの力なんでさァ。存在の全否定だから仕方ねェんですけどねィ」
ふわりと笑う。
「第四条は俺の力と逆の力が働きやす。貧乏神なら幸せが降ってくるってことです。アンタはこの次にくる春でも楽しみなせェ」
それじゃあさようなら。
言葉を残してその言葉を誰にも聞かれることもなく死神は消えていった。
惜しむような風がさらりと吹いて土方の髪を撫でる。
死を司る神の力は命を奪うことだ。第四条はその逆の力が働く。命を奪うことの反対は?
土方はその二日後に目を覚ました。
河原は相変わらず草が生い茂っていた。つい一か月ほど前に全部刈って整えてやったのだが、どんな栄養を取っているのか伸びるが早くて結局そのままだ。そんな場所に真新しい綺麗な祠があるのだから、なんだか場違いな気がして土方は首を傾げる。もしかしたら石碑の中で文句を言っているかもしれない。
「まあいい」
祠の前に腰を下し、土方はふっと笑った。大神のルールはもうないのだと言ってアイツだって他にルールを隠してやがったんだ。勝手なことをしたのは向こうだから俺だって勝手なことをしても文句を言われる筋合いはない。壊れかけた死神の石碑は綺麗に作り直してやった。
土方が目を覚ましてからもう三カ月が経つ。てっきりあの世だと思っていたのが実は近藤さんの道場で、泣きながら抱きついてきた近藤さんの涙と汗と鼻水で土方は漸く自分が生きているということを知った。そのことに土方は混乱した。自分は死んだはずである。例えあの傷で死んでいなかったのだとしても、二日も経っているなら俺の余命は尽きたはずだ。
何故俺は死んでいないんだと布団から飛び出し死神の姿を探したが、呼びかけてもどこを見てもその姿はなかった。もしやと思い初めて会ったこの場所に来て問いかけたり神頼みを試みたりもしたが、死神の姿が土方の前に現れることは二度となかった。まるで夢だったのだよと言わんばかりで、土方は呆然とする。意識が途切れたあと、夢うつつにアンタは生きるべきなんだと言って笑った死神の言葉がふいに蘇った。もしそうならば土方は死神に生かされたことになる。しかし土方自身にとってその代償は大きかった。土方は死神に命を奪われることをどこか甘美にも似た喜びを持っていたのだから、それが叶わなかった時の絶望は大きかった。
初めの頃は腐っていた土方だが、今は前のように愚痴ったりせず変わりゆく日々を暮らしている。あの時の戦は政府の大将が倒れたことから俺たちの勝利に終わり、この町が水に沈むこともなくなった。それどころか今回の戦いが認められ人が移り住んできて町も少しずつ大きくなりつつある。この町を巨大な大都市にしようといろいろと計画が進行していて、それに参加している土方も毎日が大忙しだ。多忙な日々に歳月の流れは速い。しかしこうして暇を見つけては石碑の前に訪れる日課を土方は欠かしたことがなかった。
春風はもう少しで夏色を増すだろう。心地よく吹く暖かな風に土方は目を細めた。ふと上を見上げると雲雀が飛んでいくのが目に入った。どこからか風に乗って桜の花びらがひらひらと舞い落ちてくる。その上には薄い雲を連れてどこまでも青空が広がっていた。それを見上げて土方は眩しそうに目を細める。その色はどこかあの目を思い出させた。死神が居た懐かしい日々が頭の中で蘇る。日にちに例えるとまだ1年も経っていないのに、遠い昔のように思えるから不思議だった。
「俺は生きている。けどお前はもう居ないんだな」
空を見上げて土方は呆然と呟く。ざぁぁっと風が吹いて、思わず土方は目を瞑った。落ち着くとぼさぼさになった髪を整えて、あまり未練たらしくいるとあの糞餓鬼が馬鹿にするに違いないと立ち上がる、その時だった。
「勝手に人のテリトリーに入らないでくれやすかィ?」
記憶の声が、現実でも聞こえて土方は動きを止める。呆然と目を瞬いて、ゆっくりと声のするほうを振り返った。視線の先でそいつが居た。あの時と同じ姿同じ顔同じ声で立っている。幽霊でも見たような気分で土方は口をあんぐり開ける。
そんな土方の反応を可笑しそう見ると空色はけらけらと笑う。全く大神様も洒落たことをしてくれやすぜと言って、口の前で指を一本立てて死神はふんわりと笑った。
「『第零条。さあ枷は外された。人として身を持ち、限りある時の中で生きてみせよ』」
土方は駆け出した。