箱庭ラプソディ
17時52分。
10両編成4ドアの車両が風を切って滑り込む。6両目の前から2つ目のドアの前に立って、沖田総悟は鉄の塊が止まるのを待った。
外はじんわりとまとわりつくような嫌な熱気に包まれている。夏なのだ。早く冷房の効いた車両に入りたいと、イヤホンから落語を聞きながら沖田は思っていた。
やがてホームに貼られた乗車位置から少し外れたところで電車が止まり、空気圧の音を立ててドアが開く。車両に乗り込むと沖田はいつものように扉脇の位置に体を寄せた。
つり革に捕まるとはあまり観察が出来ないし、それにこちら側のドアはこの先しばらく開かないことを知っている。
軽快な音楽が鳴り、また空気圧の音を立ててプシューとドアが閉まった。扉のガラス越しに流れる景色を沖田は見る、様に見せ掛けてチラリと横目で反対方向にある座席に視線を向けた。黒い男はやっぱりいつものようにそこに居て、小さい文字が並ぶ文庫本を読んでいる。今日も居たと心中で呟き、沖田は日課となりつつある観察を始めた。
男は火曜日と木曜日のこの時間にいつもこの車両に乗っていた。それに気付いたのは半年ぐらい前のことだっただろうか。
沖田が学校の最寄り駅から電車に乗り、家の最寄り駅へと降りる間男はずっと乗車している。この半年間そうだから、男は沖田より早い駅から乗り、沖田より遠い駅に降りていることになる。
この男がどこから乗ってくるのかはだいたい想像がつくが、どこで降りるのかは皆目検討がつかなかった。いっそ男が降りるまで電車に乗っていようかと考えたこともあったが、向こうも沖田の存在に気付いていたのが難点だった。観察しているとたまに視線が合うのだ。ヤバいヤバいと沖田は何食わぬ顔で顔を逸らす。せっかく週に2回、『観察』という楽しみが出来たのに、警戒されて時間や車両を変えられても困るのだ。
男は電車に乗っている間、文庫本を読んでいるか目を閉じているかのどちらかだった。たまに携帯を開くが、何かを打ってパタンと閉めてしまう。電車に乗る人の大半がするように、意味もなく携帯をいじることはどうやら好きではないらしい。
大学生ぐらいだろうと沖田は推測していた。服がいつも私服だからである。派手なファッションではなく、シンプルなものを基調としていた。着飾るより着こなすセンスがあると、同性ながらもそう思うほどだった。その上男は妙に顔が整っているから、これでモテないはずがないというのが沖田の見解だ。
(けどそれ以上のことは分かンねェなァ)
バレないようにチラチラと男を盗み見ていた視線を沖田は戻し、外の景色に転じた。
同じ時間、同じ車両に乗っている男の存在に気付いてからどんな人間だろうと観察を続けているが、外見から推測出来ることなんて数多くはない。沖田はもうこの男について観察し尽くしていた。
もっと踏み込んだことを知ろうとするならば、話しかけるしかないだろう。
沖田はそう思っていた。
しかし本気で実行する気もなかった。
座っている男の前に立ち、初めましてと話しかける自分は男が男にナンパをする変態野郎でしかなかったからである。
早々に観察に飽きた沖田は、ゆったりと流れる外の景色を眺めながら、落語と揺れる電車の音を聞いて少しまどろんだ。欠伸をかみ殺す。
本から視線を上げて、男がこっちを見ていた。
「ごめん。そっちに行くの遅れそうなの。それが事故があってね」
困った。いつものように扉脇で立っていた沖田は心の底からそう思った。
普通電車の中で電話をしていたら、周りから白い目がじとりと睨むだろうが今はおとがめなしである。近くに座っていた女性も誰かと待ち合わせをしていたようで、口元を囲い小声で相手に遅れると伝えていた。
周りに視線を向けると誰もがげんなりとどこか疲れた様子である。
困った。沖田はもう一度心の中で呟いた。
火曜日のことである。今日も今日とて沖田は6両面の電車に乗り込み観察をしていた。やはり男は本を片手に座っている。いつも悠然と席に座っているところを見ると、始発駅から乗っているのだろう。時たま欠伸を噛み殺す様に、立ちっぱなしの沖田は恨めしさを感じえない。
そんないつもとなんら変わらない日常だった。少なくとも沖田はこのまま電車に揺られ25分もすれば最寄り駅に着くものだと信じていた。
それがどうしたことだろう、沖田が乗った駅の次の駅で電車が止まったかと思えば、いつまで経っても動かないのである。この線では電車が止まること自体そう珍しくないのだが、5分もの間そうなってくるとさすがに乗客はどうしたのだろうと不思議がる。
次第にざわつく車内に、「ただいまお客様がホームから線路に転倒した為、救出活動を行っております」とのアナウンスが入った。
人身事故というのは案外表立ってニュースに流れないだけで、実は結構頻発に起きている。
人身事故という言葉に周りは「またか」という雰囲気に包まれたが、駅員が言っていた救出活動という言葉がやや事故の大きさを物語っている気がする。
沖田の懸念通りホームに横付けされたまま電車は一向に動く気配を見せなかった。
反対側のホームにも上りの電車が同じように止まっている。
開いたままのドアから生温い風と虫の声が聞こえた。
10分経った。やはり電車は動かない。2分に1回程逐一放送が入ったが、内容は同じだった。
どれほど救出活動に時間を食っているのかと、部活帰りということもあって腹を空かせた沖田は苛立っていた。
それから暫くして、救出活動という言葉は警察の現場検証へと代わり、約20分後に出発するという内容の放送が入ることになる。
落語が一週してしまったので沖田はイヤホンを外し外を眺めていた。
立ちっぱなしの客の何人かはホームに出て煙草を吸っている。住宅の中にポツリとあるような、ひっそりとした静かな駅だった。
沖田の横を通りまたひとりホームへ降りていく。沖田は腹減ったと心の中で繰り返し呟きながらぼんやりと外を見ていたが、すれ違った黒い影に目を瞬いた。
あれ?っと不思議に思い、今しがた電車を降りた人間を見る。
電灯が照らす明かりにあの男の姿があった。男が座っていた座席に目を向けると、疲れ切った顔をしたサラリーマンが腕を組んでそこに居た。席を立ったのだ。沖田は素早くホームに視線を向ける。
男はこちらに背を向けていたが、小さく灯る赤い色と吐かれた白い煙に沖田は男が喫煙者だということを知った。
ホームに降りた途端ねっとりとした夏の熱さが絡みつく。
沖田は何食わぬ顔でそっと男の背に近付いた。知らぬ男をナンパする変態野郎になるつもりだったのだ。否、端的に言えば暇すぎた。
「災難ですねィ。こんなに長く電車が止まりやして」
「お前は…」
煙草を吸っていた男は沖田を見ると少しばかり黒の目を瞠ったが、煙を沖田の反対側に向かって吐くと、手に煙草を携えた。その顔はいつもの端正な顔に戻っていて、戸惑いというものが見られない。おや?と沖田は片眉を持ち上げた。
「突然話しかけられたってーのに、驚きやせんねィ」
「お前、いつも同じ車両に乗ってるよな?」
「そうでさァ。アンタは火曜日と木曜日に乗ってやすよね?大学が早く終わるんですかィ?」
男は煙草を口に運ぼうとしていた手を止めて、今度は少し驚いたような顔をした。
「よく知ってンな」
「そりゃあ伊達に観察して…って、あ間違えた。いつも同じ時間同じ車両に同じ人間が居たら、自然と覚えますぜハハハ」
「…お前今確実に観察って言ったよな」
ジロリと見られ、沖田は空笑いを止めた。まあいいと男はため息を吐くと煙草を喫する。
「俺もお前の観察をしていたしな」
「へェ。やっぱ人間やること一緒ですねィ。俺がどんな奴か憶測つきやしたか?」
「あんまり。制服着てるから高校生なのは分かるけど、後は確証がねーな。こんな時間に帰るってことは部活?」
「へィ。だから早く帰って飯を食いたいんでさァ。腹が減りすぎて背中とくっついちまいそうですよ」
平然としながらも、沖田は少なからず驚いていた。全く知らない相手にこれほど喋れるとは思ってもいなかったからだ。
こうやって話しが途切れても、それほど居心地は悪くない。
それは沖田の神経がそんなことを気にする繊細さを持っていないからだろうか。それともこの男だからだろうか。
わからない。けれど沖田は思った。
こんなにトークのスキルが高いなら、俺ナンパ出来るかも。
なんて。特にしたいとも、思わないが。
「これやる」
「へ?」
煙草を吸っていた男がポケットから何かを取り出して差し出してきた。咄嗟に沖田はそれを受け取る。沖田の手の中に、包装された飴がひとつ、あった。
「友達から貰ったんだけど、甘いモン好きじゃねーからやるよ」
「はァ。ありがとうごぜーやす。でも残念なことに母親から知らない人から物を貰うなとキツく言われてやしてね」
男がガクッと脱力した。
「ンな飴玉一個に毒なんか入ってねーつーの」
「はァ。じゃあ」
沖田は男と向かい合うような位置に立つと、飴を受け取った手と逆の手を男に伸ばした。携帯灰皿に煙草を閉まっていた男はその手をまじまじと見て、なんだ?と沖田を見やる。
「名前、名前教えてくだせーよ」
「は?」
「俺もアンタのこと観察してやしたけど、そろそろネタが尽きやしてね。いっそアンタのことはアンタから聞いたほうが早いんじゃねェかと思っていたところなんですよ」
「なんだそれ」
「新手のナンパでさァ」
「マジかよ」
「嘘です」
「…つまんねーこと言うな」
「まあまあ。俺は沖田総悟っていいやす」
沖田のペースに流されるかんじで、男は困惑しながらも沖田の手を握った。
「…土方十四郎」
手を離してぽつりと落ちた名前をしっかりと刻むように、うんうんと沖田は首を縦に動かした。
「土方さんですねィ。じゃあこの飴は知らない人じゃなくて、たった今知り合った土方さんという人から戴いたんで、有り難く貰いまさァ」
「名前だけ知ったら何貰ってもいいのかよ?」
「名前ひとつ知ってりゃ十分でィ」
呆れたと言わんはがりの土方に返事を返して、沖田は包みを開けて真ん丸の飴玉を口の中に入れた。ほんのりといちごの甘い味が広がる。苛々していた頭に甘いものはよかった。
すっかり機嫌をよくした後、そこでふと沖田は気付く。
「そういやアンタは腹減ってねェんですかィ?」
「食べてから言うなよ。まあ、別にどうってことねーよ。いざとなったらマヨがあるし」
男が当たり前のように言った。沖田は首を傾げる。
「マヨ?」
「ああ。マヨネーズ」
「そんな調味料をどうするんですかィ。腹の足しになるどころか腹壊しやすぜ」
「ああ゛?何言ってンだ。マヨは立派な主食だろうが」
「………アンタ変わってやすねィ」
しみじみと沖田が言えば、十分テメーも変わってやがると土方が言う。
そりゃそうだと沖田は笑った。
沖田が土方と出会ったのは、そんな夏の夜である。