箱庭ラプソディ
手をパタパタと団扇代わりにしながら電車が到着する音を聞いていた。夏真っ盛りである。
ドアが開いて中に入ると、いつも沖田が立っている場所に土方が立っていた。「よぉ」と声を掛けられたから、「どうも」と返す。そのまま男の隣に立って肩を並べた。
知り合ってから2ヶ月が経っていた。
言葉を交わすようになってから、沖田は土方十四郎という人間のことを多く知ることができた。
通っている大学がここら辺では有名な大学だということ。歳は今年で20歳だと言っていたから、沖田とは3歳差ということになる。
好物はマヨネーズ。どんな物にもかけるらしく、話しを聞くだけで異常だと思うほどだ。マヨを語らせば右に出る者なし!のマヨをこよなく愛する二枚目に、人間誰しも完璧なヤツは居ないんだねィと沖田はしみじみ思ったものである。
苦手なのはホラーや幽霊といった類いのようで、そういった話しをすると顔を青くして無理やり話しを区切ろうとする。
沖田はその度に、「アンタの後ろにも居やすぜィ」等と言って土方をからかうのである。
「アンタって本当に幽霊が嫌いなんですねィ」
「だ、誰がンなこと言ったんだよッ。全然!全然そんなことねーってーの!!」
「嘘を言いなさんな。あ、ほら今宙吊りになった長い髪の女が、」
「ーーーーッ!!」
電車の中ということもあって、土方はビクッと肩を震わせると口元を手で覆い声なき声を上げた。
二枚目の男が悲鳴を飲み込む姿というのはなかなか面白いものがある。
内心ほくそ笑み、無表情で沖田は言った。
「いやァ土方さん。アンタってほんと面白いお人でさァ。からかいがいがありやす」
「…てめー、やっぱ嘘なんじゃねーか」
「あれ?土方さんはこういう話大丈夫なんですよねィ」
「そ、そうだよ。けどこういう話がダメな人も居るかもしれねえだろ?聞いただけで鳥肌立つとか背中がゾワゾワするとか最悪ショック死だって、」
「あ!首が90度傾いた落武者が!」
「ヒッ!!」
土方がまたもや声をひきつらせるものだから沖田は面白くて仕方がなかった。
肩をぷるぷる震わせて気を抜けば一気に飛び出しそうになる笑い声を必死に噛み殺す。
それを見て土方が青筋を立てるが、この可笑しさを止める歯止めにはならない。土方は今にも腹を抱えて笑いだしそうな沖田を見ているしかなかった。
知り合ってからというもの、火曜日と木曜日、沖田が電車に乗ると土方は席から立って沖田の定位置となっているドア脇に立ち、沖田を出迎えてくれるようになった。
沖田が電車に乗っている25分間、土方と沖田は他愛もない話しをする。学校では何をしているから始まり、食の論議、最近見たドラマや映画の話など当たり障りのない話ばかりだが、沖田はそれなりにその時間を楽しんでいた。
ホームで電車を待つ間に落語を止めイヤホンを耳から外し仕舞ってしまうほど、沖田は土方と話すことに価値があると思っている。人を知るのは面白いことだ。
ふとアナウンスが入り、沖田が降りる駅名を告げた。今日はここまでだと沖田はカバンから定期券を取り出す。ドアが開き、沖田は降りた。
「それじゃあまた。トイレに行く時は後ろに気を付けてくだせェよ。何がいるか分かりやせんから」
「だから俺はビビってねェって!」
プシュっとドアが閉まる。ドアのガラス向こうでこっちを睨んでいる男にひらひらと手を振ると、むすっとした顔のまま土方も手を振り返した。
電車が走り出す。沖田は踵を返して改札を抜けた。
まだ空は夕焼け色で、駅の隣に建っているスーパーを仕事帰りの人間や子どもを連れた主婦たちが行き交っている。
家に向かって歩いている最中、沖田はふと電柱にくくりつけられた看板を見た。
花火大会の文字が踊っている。もうそんな季節かと沖田はしみじみ思った。
(土方さんは行かないだろうねェ。人混みは好きじゃないって言ってたし)
近所で開催されるらしいその内容を一通り見た後、沖田は歩みを再開した。
けれどふと、何故今自分は土方のことを考えたのだろうと不思議に思った。
土方とは電車友達でしかない。
火曜日と木曜日に電車の6両目で話しをするただの知り合いである。約束をしてふたりで出掛けるなんて以前にメアドすら知らない。あの電車がなくなってしまえば永遠に会うことはないだろう、友達とも言えないような、そんな知り合いだった。いつの間にか『電車の中だけの付き合い』という暗黙のルールが出来上がっていた。
「ただいま」
家に帰ると家人はどこかに出掛けているらしく、がらんと静まり返っていた。沖田はそのまま自分の部屋に入り、クーラーの電源を入れてベッドに倒れ込む。
暗黙のルールを破ってみようか。
沖田はそんなことを考えていた。
花火に誘ったら、土方さんは来るだろうか。ぼんやりとそんなことを考えて、誘おうかと悩んでいる自分がいて、沖田は眉間に皺を寄せるとぽすっと枕に突っ伏した。
外は激しい雨だった。雨は嫌いだ。乗車率が高くなる上に、熱気と湿気でむわんと嫌な空気が車内に充満する。特に金曜日の夜となれば最悪である。
その日土方と会ったのは本当に偶然だった。金曜日にこうして会うのは初めてではないだろうか。
携帯をふと取り出し時間を見ると、21時39分という時刻である。金曜日ということもあって、仕事帰りに一杯ひっかけた会社員が多く乗車する時間帯であった。すぐ傍に立っている会社員から酒臭い臭いがしっかりと嗅ぎとれて、沖田はうんざりする。
ドアに背を預けていた沖田ははぁとため息を吐いて、いつもの電車いつもの車両に偶然乗り合わせた隣の人物を見上げた。
「アンタも物好きですねー土方さん。こんな日は座ってりゃあよかったのに」
「いやまさかお前が乗ってくるとは思わなかったから、いつもの癖でつい、な」
土方が少し困惑めいた声でそう言った。いつもの癖ねィと、何気なく吐かれた言葉を沖田は反芻する。
沖田の姿を見るとつい立ってしまう習慣がつくほど、慣れ親しんだということであろうか。それが嬉しいことなのかは、正直沖田には分からない。
「金曜日は毎回この時間に帰ってるんで?」
「いや。今日は飲み会があってな」
「へェ。飲みにしてはお早いお帰りですねィ」
「レポートが残っているから遊んでるわけにもいかねーの」
沖田は大袈裟に肩を竦めた。
「大学生は大変だ。俺なんてダチのところでゲームしてたらこんな時間ですよ」
「羨ましいかぎりだな」
ドアを背にした沖田は、土方越しに次の停車駅が表示された電光板を見ながら誘いを切り出すべきか否か迷っていた。
花火大会という4文字が頭の中できらきらと輝いている。
まあ断れるだろう。
だから期待するなと自分に釘を刺して、そこでふと、何故そんな釘を刺す必要があるのかと沖田は戸惑った。何を期待しているというのだろうか。一体何に。変に目が泳いだ。
「どうした?」
そんな沖田に土方が目敏く気付く。
歯切れ悪く、沖田は言った。
「あーいやーあのですね、土方さん。今度あるはな…、」
花火大会、一緒に行きやせんか?
そう続くはずの言葉はしかし、ドアの開く空気圧と停車駅を告げるアナウンスで掻き消されてしまった。
人がどっと入って来てまた窮屈になる。
といっても沖田が立っているのと反対側のドアが開いたのだから、そのしわ寄せがきているのは土方だ。乱暴に押されたようで、むっと眉を寄せて踏ん張っている。が、俺も俺もと乗り込んでくる人間の力は容赦がない。
押された土方がバンッとドアに手を付いた。自然と沖田は土方の体と腕に囲われる格好となる。それが何故だがひどく落ち着かなくて、沖田は肩を縮ませる。
「大丈夫か?」
「まァ。俺より土方さんのほうが大変でしょう」
「ひどいもんだ。もうこんな時間帯には乗らねーって肝に命じとくわ」
上を見上げると土方しか見えなかった。人の頭の山と蛍光灯が見えるが、目に入り来んでくるのは土方のみだ。土方の影が落ちる。顔が思ったよりも近くてどぎまぎしてしまう。
なに土方さん相手に焦ってんだよッ!と自分にツッコミながらも、手持ちぶさたになって沖田は俯くしかなかった。
この近さでは話しをするのも少し躊躇してしまう。ガタゴトガタゴト、染み付いた土方愛用の煙草の臭いも吸って、電車の振動を沖田は聞いていた。
「あ。なあ、さっきなんか言いかけなかったか?」
「なんもありやせーん」
「そうか?」
頭上から土方の府に落ちてなさそうな声が聞こえた。が、努めて明るく言いながらも沖田はそれどころではなかった。
土方さんに彼女がいたら、当然その子にもこんなことをしてあげるんだろうなァ。こんな風に、囲って人混みから庇ってあげるんだろうな。
なんて、そんなことを何気無く考えてしまったからである。
沖田はギュッと下唇を噛んだ。そうでなければ意味不明の言葉を叫んでしまいそうだった。
(何考えてんだよ俺…ッ!!)
馬鹿馬鹿しいと一蹴りしたつもりでも、胸の中でぐるぐると暴れ回っている理解不能な感情は止まる気配さえ見せなかった。結局最後まで黙ったままで、花火のことは話せず終い。手のひらには汗をかいていた。
沖田は未だに恋をしたことがなかった。
あまり色恋というのに魅力を感じなかったからだ。
そんな面倒なことよりゲームをしたり友達とふざけあって遊ぶほうが何倍も気楽で楽しかった。
しかし最近それよりも気になることが出来てしまった。
暇さえあればついついあの男のことを考えてしまう。火曜日と木曜日があんなに待ち遠しいのは何故だ。
それを考える度に沖田は悩んだ。分かるようで分からない感情に毎日振り回されっぱなしで、ほんともう疲れる。
恋ってなんだ。悪友の高杉にそう聞くと、ソイツは人を馬鹿にしたように笑って言った。
「フン。簡単なことだ。ヤりたいと思ったら好いてるってことだ。好きな相手じゃねーと欲情しねえからな」
何を当たり前なと言わんばかりで、高杉っぽい答えだと関心したのを覚えている。
…さて、では俺は土方さん相手に欲情するのだろうか。問題はそこである。
(いやないないないない)
男が男になんて冗談じゃない。
心の中で全否定をするが、それを認めるしかないところまで理解不能な感情は押し寄せていた。
けれどやっぱり、これが恋なんて甘ったるいものなのかは沖田には分からない。
そんなことをぐだぐだと考えながら沖田は走っていた。
部活が少し長引いて学校を出るのが遅れてしまったのである。
今日は火曜日だから6両目の2ドアまでには行かなければならなかった。
沖田がその位置に着くとちょうど電車が来たところで、ホームに並んでいた人たちがドアが開くのを待っていた。
息を整えつつ沖田も最後尾へと並ぶ。
電車が止まり、今日は居るだろうかとなんとなく最後尾から電車の中を覗いた。
沖田はそこで、思ってもいないものを見た。
(あ……)
土方が立っていた。
その横に、寄り添う女の姿があった。
こちらに背を向けている土方の表情は分からないが、女が楽しそうに笑っているのが見えて、沖田は足を動かすことが出来なかった。ただ呆然と立ち尽くす。女が何かを囁けば、土方が後ろ頭を掻く。女の幸せそうな顔が、沖田の脳裏に焼き付いた。
やがて電車が発車する旨の軽快な音楽が鳴り、ドアが閉まる。
沖田は電車を見送った。
ホームを走り出る電車の風を受けながら、ぼんやりとその電車を見ていた。
「…なんでィ」
人が居なくなったホームで呟いた。風で髪がボサボサになって、撫で整えようとしたが急に歯痒くなり逆にぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
そしてぶらんと手を降ろして佇む。
「やっぱ彼女いるんじゃねェか」
努めて明るく言ったつもりだが、口から出てきた声は弱々しくて辺りの喧騒に溶けてしまった。
沖田はやっと、自分が土方を好いていたのだと気付いた。
恋に気付いたと同時に失恋なんて、本当に、冗談じゃなかった。
嗚呼本当に、冗談じゃない。