箱庭ラプソディ
季節はすっかり移り変わり、初冬になっていた。これから寒さが増してだんだんと布団から出るのが億劫になってくる。そう考えるだけで、憂鬱だった。
「高杉ー、ジュースがなくなっちまったー」
「テメーで注げ」
コントローラをカチャカチャと操作しながら沖田が言葉を投げれば、ベッドに寝転がって携帯を弄っている高杉が気のない返事を返す。ちぇーと不貞腐れた顔をしてはみたものの、人の上げ足ばかり取るこの悪友がノリノリでジュースを次ぎお菓子を補充してくれるなど沖田は期待していなかった。結局ゲームを一時中断して、沖田は自ら飲み物を注いだ。
コップを傾けちびちびと咽を潤しながら、何気無く横に置いた携帯を見る。ディスプレイに表示された時間を見ていた。
「おい21時だぜ。帰らなくていいのかよ」
「まだやらァ。テメーもひとりじゃ寂しいだろ。しょうがねェから居てやりまさァ」
「俺はお前が帰るのを望んでいる」
そうはっきりと口にして、高杉はゲームを再開した沖田の背中を見ながらにやりと口を嫌に歪ませた。
「前まで火曜と木曜は即行家に帰ってやがったのにな。なあ、沖田」
「うるさいぜ」
意地でも後ろを振り向かず平然と、沖田は言った。
いつの話をしてるんでィと、茶化す高杉を両断する。もうあれから3ヶ月が経っているのだ。
電車を見送ったあの日から、沖田は乗る車両も変えたし時間も変えた。
自然と土方とは会わなくなったが、うっかり17時52分の6両目の車両に乗って、土方と彼女のツーショットを見る羽目になるのは絶対に嫌だった。
もう何があっても近付かない。断固としてそう誓うほどである。
高杉には直前にちょっとした相談(というほどでもないが)をしたこともあり、「好きな女でも出来たか?」と感付かれてしまったが、根掘り葉堀り聞かれる前に「欲情しなかった」と簡潔に答えた。
高杉はそれ以上何も言わなかった。どこまで踏み込んでいいのかそういうラインはしっかり弁えている。あっそ、と興味が失せたと言わんばかりにそんな一言で話題を切ってくれて、正直沖田は有難かった。
「合コンでも設定してやろうか」
「興味ないからいい。あ」
手元が狂って操っていたキャラが崖から落ちた。赤い文字でゲームオーバーの文字が画面に浮かび上がる。やる気が削げて沖田はコントローラを放ると、そのまま本体の電源を切った。
「気が乗らねェから帰る」
「俺の家をお前の暇潰しに使われても困るんだがな」
そう言いながらも高杉は玄関まで見送ってくれる。手を振って別れ、沖田は冷たい夜風に体をすくませながらポケットに手を入れ駅へと向かった。
高杉の家は学校から近い。最寄り駅も当然同じで、ホームに着くと沖田はポケットからイヤホンを取り出しいつものように落語をかけた。ふと今日が何曜日か考えてしまう。
(馬鹿らしい)
心中で毒づき、沖田は一番後ろの車両に乗り込んだ。
何も変わってなどいない。未だにふらついている頭に沖田は叩きつける。
乗る車両と乗る時間が変わっただけで、電車の中で落語を聞くのはいつもやっていたことだ。火曜日と木曜日なんて1週間の内のひとつでしかない。特別なことなんて何もない。その筈だ。
なのに何故だろう。いつもと同じはずの25分間がひどくつまらなかった。
やがて駅に着き、沖田はホームに降りた。
改札はちょうど5両目の位置にあるから、最終車両からだと少し歩かなくてはならない。
同じように改札に向かって歩く疎らな流れの中で、沖田の足は重かった。
と。
ぴたり。
改札の近くで足を止める。
改札の手前に設置されているベンチに、居るはずのない人物を見つけたからだ。
ソイツは黒っぽいズボンを履いた長い足をこれ見よがしに組み、誰かを探すように行き交う人たちを見ていた。
「なんで…?」
沖田は夢を見たように呆然とした。
何故土方がここに居るのか、さっぱり分からなかった。
沖田の呟きが聞こえたわけでもないだろうに、3ヶ月前と何一つ変わらない男がふいに切れ長の目をこちらに向ける。
目が合った。沖田は体温がざっと下がるのを感じた。
土方が顔色ひとつ変えず片手を上げる。今更知らぬフリをして逃げるわけにも行かず、沖田もまた片手を上げた。ベンチの側まで行く。こういう時、心底ポーカーフェイスでよかったと沖田は思うのだ。声だって震えなかった。
「久しぶりですねィ」
「ああ。久しぶり」
「こんなとこで何をやってるんです?誰か待ってるんですかィ?」
そう問うて、沖田はしまったと思った。土方の彼女の最寄り駅がここかもしれないと気付いたからだ。ああ、なんて馬鹿なことをしたんだ。もし本当にそうだったらどうしよう。それなりに好きだったこの町が嫌いになる。
沖田の杞憂なんて露知らず、土方はぶっきらぼうに言った。
「お前を待っていたんだよ」
その言葉が頭に染み込むまで約5秒。
へ?と間抜けな声を出し、沖田はまじまじと土方を見た。
「え、なんでです?」
正直な感想だった。
しかしその言葉が気にくわないらしく、端正な顔をした土方は眉間に皺を寄せてからはあと大きなため息を吐いた。
トントンとベンチの隣を叩き、まあ座れよと促される。
はァと曖昧に頷き、微妙な距離を開けて沖田はベンチに腰を下ろした。
しばらく沈黙が続く。
耐えかねた沖田が「なんの用でィ」と口を開きかけた時だった。またふいに土方がこっちを見た。
「なあ」
「へェ」
「なんでお前電車に乗らなくなったんだ?」
やっぱりその話か。予想はしていたが、改めて言われると答えに困り、沖田は口をつぐんだ。
俺、なんかした?と問われてふるふると沖田は頭を振る。土方は追求を緩めない。
「アンタのせいじゃ、ないです」
「じゃあなんだ」
「………」
そう言われると、困るのだ。
アンタを好きだったんです、でも彼女と一緒に居るのを見てしまったから、もうアンタを見ることさえツラくて顔を合わせたくないんでさァ。
そう全部吐き出せることが出来れば、一体どれだけ楽になって、どれだけ苦しいのだろう。
沖田は言い淀んで、にたりと茶化すような笑みを精一杯装って、気付かれないように、拳をギュッと握った。
「いつか土方さん、彼女と一緒に電車に乗っていたじゃねェですか」
「…ああ」
「それ見ちまってから、同じ電車に乗るのは止めたんです。知り合いがいちゃついているのを見たって鬱陶しいだけですからねィ」
土方が顔を戻した。
「もう今は一緒に乗ってねーよ」
「別に気を使わなくていいんですぜィ?電車はみんなのモンだ。まああんまりいちゃいちゃされるのもマナー違反、」
「別れた」
拍子抜けするほどあっさりとした言葉で遮られた。沖田は二の次が告げず、思わず頭が真っ白になる。3ヶ月前に見た忘れもしない彼女の幸せそうな顔が、ふと沖田の脳裏によみがえった。
言葉を失ったように呆然とする沖田を見て、土方はこれ見よがしにため息を逃した。手持ちぶさたにポケットから煙草を取り出そうとするが、この駅が禁煙だったのを思い出し、苦虫を噛み潰した顔をする。
頭を乱暴に掻くのは土方が困っている時だと沖田は知っていた。
お前のことが気になったんだ。その一言を発するのに長い沈黙を要した。
「何時からかお前と一緒に居る火曜日と木曜日がすごく待ち遠しくなっていたんだ。彼女も忙しかったから火曜日と木曜日は授業が終わってもひとりで先に帰ってたんだけど、たまにアイツから「今日は早く終わりそう」って誘いがあった。けど俺はいつもそれを断っていた」
「なんでです?」
「いつもの時間の電車に乗りたかったから」
「…マジですかィ」
「可笑しな話だろ。彼女の誘いを蹴ってまで、俺は電車に乗ることを優先させていたんだ。お前が居ると思ってな。何考えてんだか自分でもさっぱりだった。そんな自分に俺自身が一番驚いたよ」
自嘲するように土方は言って、そこで一端言葉を区切ると息を吸うように小さなため息を吐いた。
ちらりと沖田を見て少し言いづらそうにする。
「アイツと一緒に電車に乗ったのは、アイツとお前を比べたかったからだ」
「…え?」
「彼女が居たら、沖田より彼女を優先させるだろ。そしたら俺も、やっぱり彼女が一番だと思い直すと思ったんだ」
「…そう、ですねィ」
沖田の心を知らないとはいえ、ひどいことを言う男だ。自然と声が落ちてしまうのはどうすることも出来ない。
アスファルトの地面を見るのはなんだか落ち込んでいるのだと言っているようで癪だったから、沖田は暗い夜空を見上げた。
夜越しに土方の声を聞く。
「でもお前は乗って来なかった」
「…そりゃあ、乗りやせんでしたから」
「だから余計に気になったんだ。お前が乗る駅になると期待して、姿見えないとなんで来なかったんだって気になって頭の中がそればっかりだ。アイツの話だって何度も聞き逃した」
ふと沖田は疑問を持つ。視線を土方に戻した。
「それで彼女と別れたんですかィ?」
「ああ」
「…また変な理由で大きな魚を逃がしやしたねェ」
沖田としては、何故彼女との別れに自分が出てくるのか分からなかった。
そしてちょっとだけ、もしかしてと期待してしまう。忘れていたはずの、否この3ヶ月封印してきた、はっきりとしない甘い想いが沖田の胸を燻っていた。
土方と目が合う。じっと見ていると土方が口を開き、けれど言えやしないとばかりに視線を逸らして頭を掻いた。
「あの、だな」
「へィ」
「えーっと」
「なんでィ」
「お、俺と…つき、いやじゃなくて」
沖田は耳を澄ませた。
ともすればなかなか煮えきれないこの男が歯痒くも思えた。
早く言えとばかりにじっと見つめていると、土方が意を決したように口を開く。
真面目な顔をして、こう、言うのだ。
「俺と、友達になってくれねーか?」
「………」
沖田は思考が停止した。黙ること約5秒。
次の瞬間吹き出した。電車の来ない閑散としたホームにゲラゲラと笑う沖田の笑い声が大きく木霊した。
腹を抱えてヒィヒィと引きつるような声を出して、苦しいと沖田はうめいた。
そんな沖田に土方は目を白黒させる。
なんでそこまで言っておいて、「友達」になるのだと、沖田は思うのだ。言うに事欠いて友達だって?それが面白くてたまらなかった。まずは友達からだって? 土方さんらしい!ぽろりとネジが外れたように沖田はただ笑った。
目尻に溜まった涙を拭う。
「あーあ、アンタってほんと面白いですねィ」
「あのな、こっちは真剣に、」
「ああ、返事ですね、返事。じゃあ直球に言わせていただきやすけど、お断りでさァ」
考えてもいなかったのだろう。
ピキリと音を立てて固まった土方に沖田はまた吹き出しそうになり、その衝動を押さえこむと笑みを浮かべたまま土方と向き合った。
「友達は嫌なんで、俺と付き合ってください」
沖田は、ちゃんと言った。
ポカンとしていた土方はみるみる顔を赤らめ、お、とか、ば、とか意味不明な言葉を発して、視線を逸らすと顔を手で隠した。けれど耳がばっちり見えているから意味がないのだと、わかっているのだろうか。ああ、それどころじゃないかもしれない。
「変な顔ですねィ」
「うるせえよ」
「俺これでも告白してるんで、土方さん、返事くだせェよ」
うーと呻き、唇を噛んでどこか悔しそうに土方が言う。
「……。俺が言いたかった、じゃダメか?」
「アンタがヘタレってことはよくよくわかりやした」
沖田は笑うしかなかった。沖田の恋が実った瞬間だった。