焼け色のにじゅうとび


 学校で、二重跳びが出来ない人間は限られていた。
 太ったやつ、運動神経がないやつ、やる気のないやつ、周りの予想に違わぬ子どもたちが真っ先に足を引っ掛けて、始まりの合図と共に脱落してその場に座っていく。

 総悟もそんな中のひとりだった。
 太ってもいない、運動神経もある、大好きな体育なのだからやる気だって申し分ない。それなのに総悟は二重跳びが出来ない。一回も跳べなかった。
 早く回そうとすると足が引っ掛かる。高く足を上げようとすると縄を回す手が疎かになる。
 元来負けず嫌いな性格もあって、総悟は跳べないことが死ぬほど悔しかった。だから、「特訓をしよう」と思いつくにはそう時間はかからなかった。

 負けず嫌いでも努力をしているところを誰にも知られたくない総悟は、学校からも家からも少し離れた人気のない河川敷で暇を見つけると二重跳びの練習に明け暮れた。
 誰にも練習のことを言わないから助言も貰えないしどうやればいいのかも分からなかったけれど、ただ我武者羅に頑張った。
 今日も今日とて縄跳びを握りしめて河川敷にやってきた総悟は、ひたむきに二重跳びの練習をしている。すべてが夕暮れ色に染まった中で、小さな子供の影が色濃く地面に映っていた。

 跳んで引っ掛かって、跳んで引っ掛かってを繰り返す。それでも、前よりかは多く回せるようになったのだ。
 早く来ないかな。今日は調子がいいんだ。早く見てもらいたい。
 二重跳びの練習をしながら総悟は待ち人を待っていた。ここはその人の帰り道らしく、練習中に転んで泣いていると「どうしたんだ?」と優しく声を掛けてくれたのだ。
 「いくら練習したって跳べない」泣いている時に優しくして貰うともうダメで、押し込めていた感情が一気に溢れだして跳べない出来ないと泣きじゃくる。
 初対面で名前も知らないのにその人は大丈夫跳べるさと何度も勇気づけてくれて、頭を撫でながら根気強く慰めてくれた。そして「じゃあ跳べるようになるまで俺が様子を見に来てやるよ!」とにかっと光るような笑顔で言ってくれたのだ。それから彼は、帰り道に総悟が居るのを見つけると必ず声を掛けてくれる。

「総悟!」

 弾んだ声に総悟は勢いよく振り向いた。一瞬で子どもの顔に花が咲く。

「近藤さん!」

 元気よく彼の名を呼ぶ。
 学生服を着た近藤はぺしゃんこの鞄を背負って手を振りながら河川敷に下りてきた。近藤の顔が夕焼け色に染まって、それが綺麗で、今日も会えたと総悟は嬉しくてたまらない。

「やっぱり今日もやってたんだな」
「うん。まだ跳べないし、近藤さんにも会いたかったし。あ、でも、でもね、前より速く回されるようになったんだ。もうちょっとで跳べそうなんです!」
「そっかあ。総悟は偉いなあ」

 近藤は惜しみなく満面の笑顔を総悟にくれる。大きな手で頭を撫でられて心が嬉しさでぴょんぴょんと跳び跳ねて擽ったかった。
 見上げた先に、いつもと変わらない存在が居る。心臓がドキドキした。
 さあ練習だという声に背中を押されて総悟は練習の成果を近藤に見てもらうべく跳び始める。緊張して上手く跳べなかったけど、上達したところを見てほしくて精一杯頑張った。
 失敗して俯くと、大丈夫大丈夫と近藤が笑って背中を叩いてくれる。ちらりと見上げると大好きな笑顔があった。夕焼け色に染まる見慣れたそれがドクンととびきり大きく心臓を打つ。

 なんで近藤さんと会っただけでこんなにドキドキするんだろう。総悟は不思議だった。
 元々はっきりしないのは好きじゃなかったから、何があってもこの人は裏切らないだろうと絶対的な信頼を寄せている実姉に、総悟は素直に聞いてみたことがある。姉のミツバは総悟の悩みにびっくりしたようにひとつ瞬いて、次いでくすりと繭を包むような笑みを浮かべる。そして優しい声で教えてくれた。
 総ちゃん。それは恋よ。

「総悟はだいぶ上手くなったな」
「ほんと?!」
「ああ。俺にもそれが分かる。総悟の頑張りが俺にはちゃんと分かるんだ」

 へへ、と照れくさくてつい笑ってしまった。
 練習が終わると近藤はいつも紙パックのオレンジジュースをくれて、それを飲みながら土手沿いに座って他愛もない話をするのがいつもの流れだった。
 この気持ちが恋だと気付いてから、近藤が練習を見てくれるのも好きだが近藤と何もしないでただ話をするこの時間が総悟は何よりも好きだった。
 夕焼けは太陽が地平線へと消え夜の訪れを知らせるそれだったけれど、総悟にとってはどの時間よりも世界が輝く瞬間である。

(俺、近藤さんが好きだ)

 大きく笑いながら学校の話や今日の出来事を話している近藤の横顔を見ながら、何回も何回も心の中で呟いて実感する。
 二重跳びが出来たら近藤さんに好きだって言おう。こくはくするんだ。
 オレンジジュースよりも濃くて赤みの強い色に染まった川を見ながら言うんだと気持ちを強くする。二重跳びが出来たら言うんだ。だから絶対成功させなきゃ。

「そういえば総悟は好きなやつがいるのか?」
「え?」

 考えたことを覗かれたように絶妙のタイミングで問われて、声が上擦ってしまった。
 なんでそんなこと聞くのだろう。言えってことじゃないよね、と総悟の頭の中はパニックだ。

「えーと、えーと」
「あはは。その様子じゃ居るみたいだな。総悟かっこいいからモテるだろ?」
「そ、そんなことないです!」
「照れちまってー」

 夕焼けの中でも分かる真っ赤になった総悟の頬っぺたを近藤は笑って突っついた。ぞわわっと余計に赤くなって近藤は面白がっているけれどこっちはそれどころじゃない。
 笑顔が、声が、触れられたことが、近藤のすべてが総悟を狂わせる。心臓がうるさい。とまれとまれとまれ!

「お、俺が好きなのはっ!」
「大丈夫だ。そんな無理して言う必要はない」

 総悟の言葉を遮って大きな手が丸い頭を撫でる。総悟は既にオーバーヒートでそう言われてしまってはもう何も言えなかった。
 総悟の心音はドキドキと高鳴ってばかりだ。苦しい、これが恋ってやつなのかなと総悟が膝の上に置いた手をギュッと握る。
 しかし暫く間をおいて近藤が言った言葉に、その高鳴りはピタリと止まってしまった。

「実はな、俺も好きな人が居るんだ。隣のクラスの子なんだけど」
「……え?」

 これ内緒なって笑って頭を撫でられて、いつもなら嬉しいそれにも反応さえ出来ないほど、近藤が何を言っているのか分からない。今、なんて言った?
 だからもう一度同じことを聞いてしまう。それがもう一度自分を傷つけると分かっているのに、確かめずにはいられなかった。

「近藤さん、好きな人が居るんですか?!」
「うん。コレ総悟にしか言ったことがないんだからな! でも告白する勇気がなくて言えなくてな。何回も言おう言おうとしたんだけど、情けない話が結局言えずじまいだ」

 あははと照れくさそうに笑う近藤を、夕焼け色に染まった瞳が凝視する。
 まず、嘘じゃないかと疑った。信じられなかった。けれど近藤の照れ笑いがミツバに「総ちゃんの好きな人って誰なの?」と聞かれて近藤の話をする時の自分を彷彿とさせるから、総悟はそれは近藤の本心なのだと気付いてしまった。

「でな、俺、総悟が二重跳び飛べたら、その人に告白しようと思ってる」

 近藤の言葉がショックでたまらなくて、総悟は俯いていた。構わず続ける近藤から、もっと衝撃的な言葉が放たれて、総悟の頭の中が完全にストップする。

(え……? 俺が二重跳びを飛べたら…?)

 それは、総悟が近藤に告白しようと思っていた条件と同じだった。
 二重跳びが飛べたら、近藤に告白しようとおもっていた。でも近藤も総悟が二重跳びを飛べたら告白しようとしている。そしてその相手は、自分じゃない。

(どうしよう)

 視線を変えて、横に置いた縄跳びを見る。
 どうしよう。頭の中で警告音が鳴り響く。

(俺、二重跳びが飛べない…)

 跳んだ瞬間、彼は自分の知らない相手のところに走って、近藤さんは俺の前から消える。そう思うと、だったら跳べないほうがいいと、直感的にそう思ってしまった。




 それから何日か日が流れた。
 体育の時間で、やっぱり二重跳びをやった。みんなが跳ぶ。1回目で躓いて脱落者が座る。
 二重跳びの授業が始まって日にちも経ったから、最初は出来なかった子もだんだんと出来る数が増えて、肩身が狭いのは比例して数の減った跳べない子どもだ。
 その日も変わらず総悟は開始早々に引っ掛かった。
 乾いた地面に座って、膝を抱える。みんなが楽しそうに跳んでいるのを見る。つまらなくて砂に絵を描いていじけた。
 本当はもっともっと跳べる。二重跳びはまだ跳べたことがないけれど、あともうちょっと、という際どいところまで跳べるのに、今日は跳べる気配すら感じさせないで終わってしまった。
 いっぱいいっぱい練習して体もコツを掴んでもっと跳べるよ、と言っているのに、心のどこかがブレーキをかけて足がひどく重い。跳べたら近藤が告白してしまうという重りが足枷のように付いている。
 空を見上げた。文句の付けようがない晴天だった。
 最近雨が続いたこともあって練習には行っていない。こんな状況で近藤に会いたくなかったから都合がよかったけれど、もやもやとしたこのかんじは一向に晴れる気配がなかった。
 それよりも日を増すにつれどんどんと水を吸ったみたいに重くなる。


「総ちゃん」

 とぼとぼと歩く帰り道、名前を呼ばれて振り向くとミツバが立って手を振っていた。今日は早く学校が終わったらしい。
 どうしたの? 何か悲しいことでもあった?
 優しい彼女はすぐに浮かない顔をした総悟に気付いて、しゃがみ込むと総悟と視線を合わせて頬笑みかけてくれる。
 近藤の笑顔を思い出す。
 じわっと泣きそうに顔を歪ませた。お姉ちゃんと呼んで、この苦しい固まりを吐きだすように縋った。

「好きな人がね、違う人を好きだって言ったらどうする?」
「総ちゃん……」

 ついには泣きだした総悟を抱き寄せてミツバはポンポンと頭を撫でてあげる。
 皆まで聞かずとも、その言葉だけで優しい姉は察してくれた。暫く宥めてから、そうね、と言葉を置いて体を離し、濡れる愛おしい空色を見ながら笑う。

「私は、好きな人が幸せだったらいいかな」


 ミツバは、優しいけれど強い人間だった。
 いつもいつも総悟が持っていない答えに導かせてくれる。言葉を飲み込むように目を瞬いた。いつも練習している夕暮れ色の河川敷で、姉の言葉がパっと弾けて花火のように光る。川に落ちて水面の上でキラキラと光る。
 総ちゃんはどう? と聞かれて、総悟は口を開いた。




 総悟は、いつもの河川敷に居て、縄跳びで練習をしていた。
 その姿を見つけた近藤は久しぶりの再会に嬉しくなった。最初は泣いている子どもが放っておけなくて声を掛けて宥めただけなのに、いつの間にかこうして総悟に会う帰り道が楽しみになっていた。
 「総悟!」といつものように呼ぶと、夕焼け色に染まった総悟が振り向いて「近藤さん!」と元気の良い声を上げて振り向く。
 久しぶりだな、と笑うと、うんと大きく頷いて総悟も笑った。

「よし、じゃあやるか!」

 はりきった声を出して一緒に練習をする。
 今のはよかった、もっと脇を締めたほうがいい。いつも通り近藤がアドバイスを出して、総悟が跳ぶ。

 ぴゅんぴゅんぴゅん

「あ」

 夕焼けが世界のすべてを照らして染め上げて、空を飛行機が飛んだ。
 キラリと水面が光った瞬間、総悟はついに二重跳びが出来た。あまりにも一瞬でふたりは思わずぽかんとしてしまう。
 けどじわじわと“跳んだ”という言葉が浮かび上がってきて、感激で近藤は胸の中が詰まった。

「そ、総悟、今…!」
「近藤さん! 俺、今跳んだ! 跳べたよ!」

 総悟が嬉しそうな声を出す。パっと近藤を見上げた総悟の顔は、涙で濡れていた。大きな目から止めどなく涙が流れていて、泣きながら総悟は笑っていた。
 夕日がそれを照らしてキラりと光る。
 近藤は勿論総悟の涙に気付いたし、まさか泣くとは思っていなくてギョッとしたが、あえて何も言わなかったし触れもしなかった。
 ただ泣くほど嬉しかったのかと総悟の激情が伝わったようにこっちまで胸が熱くなる。跳べたのは総悟の力だが、それに少しでも自分が手助け出来たのかと思うと嬉しくてしょうがなかった。
 総悟が泣いている本当の理由を、近藤が知るわけがない。

「総悟すごいぞ! 本当にすごい!」
「はい! 近藤さんのおかげで跳べました! だから」

 だから。
 ちょっと息を吸って、勇気を振り絞って言う。

「だからこれで近藤さんも好きな人に告白できますね! 俺も体育で座らずに済みます」
「ああ、そうだな」

 総悟は気丈に言ってみせた。
 あまりにも近藤が嬉しそうに笑うものだから、堰を切って大粒の涙が次々に零れて、嗚咽が出ないように唇を横一文字にギュッと噛み締める。えらいえらいと手放しで近藤が誉めて、頭を撫でてくれる。押し出されるようにまた涙が流れる。
 跳べたら俺は近藤さんと喜びあって想いを告げるはずだった。それはこの夕日に照らされた町のように明るくてキラキラと光る水面のように輝くはずだった。
 けれど跳んだと実感したと同時に、終わったんだと何かが沈みこむ。天国に降り立つはずが地獄へと降り立ったように、心が重たい。
 でもこれだけは告げなくちゃ。

 総悟は顔を上げた。
 夕日色に染まった大好きな笑顔を見て、大好きな気持ちを乗せて総悟は告白した。

「俺、近藤さんが幸せになったらそれだけで十分です!」

 近藤の幸せを願って、総悟は自分の気持ちを言うのを止めた。この二重跳びは、近藤が告白するきっかけにすることにした。自分にじゃなくて大好きな近藤へのプレゼント。

 笑った先で照れくさそうに笑う近藤の笑顔も、その時の夕焼け色も、最後に飲んだオレンジジュースの味も、初めての失恋という苦い思い出になったけれど、どれもこれも今でも覚えている大切な思い出。
 高校生になってそろそろ夕焼け色に染まろうという帰り道、立ち寄ったコンビニで近藤がくれたオレンジジュースを見て、苦さと懐かしさと温かな気持ちを思い出して、総悟は頬を緩ませた。