夕焼け色のにじゅうとび
新しいものが出来たと思ったら古いものがなくなって景色は留めることなく変わるけれど、河川敷から見る夕日はあの頃からちっとも変っていなかった。
歩く人、犬の散歩をする人、ジョギングをする人、いろんな人が居て、みんな夕焼け色に染まっていて同じ方向に濃い影を落としている。
小学校の頃は家に帰るよりも遠くてあまり縁のなかったこの場所も、中学・高校に進むと通学路になって、気付けばもう何年もこの道を行き来している。あの頃は切ない気持ちと共に二度と近づかないと思っていたのにな、と滲んだ苦い記憶を少しだけ舐める。
ゆっくりと時間を掛けて落ちていく夕日を見ながら思い出のオレンジジュースを飲みほした総悟は、一歩先を行く背中に視線を戻して駆け足でその隣に並んだ。
「土方さん」
呼べば憎らしいことに総悟よりも背の高い隣の男は、声に引っ張られるように総悟を見た。
黒髪に黒目、その上学ランと優等生という言葉を象徴するような男は総悟よりも2つ年上の先輩だった。
先輩は敬いなさいという言葉は常に念頭に置いている。置いた上で紙パックを持ち上げてぶらぶらと揺らす。
「土方さん、これ飲みやした」
「? だから? 飲んだなら自分で持っとけよ」
「だって袋は土方さんが持ってるじゃねェですかィ。小さいこと言わずに入れさせてくだせェ」
「ばっか、これにはまだ肉まんが入ってるんだって。ってちょ、だからゴミ入れるんなって! そして当然のように肉まんを取るな!」
先輩を敬いなさいという言葉は念頭に置いているが、総悟の場合置き忘れていると言ったほうが近い。
土方がぶらぶらとさせていたビニール袋の中に素早くゴミを入れると、代わりにほかほかとした肉まんを取り出す。土方の手が伸びて肉まんを奪い返そうとするから体を捩じって避けて攻防を繰り返してこれは俺のだとでも言うように総悟はパクっと肉まんに齧り付いた。
あ゛! と短く土方が声を上げる。総悟は知らん顔。土方の金で買って土方の悔しそうな声を聞きながら食べる肉まんは最高に美味しかった。
「お前…」
「まァまァいいじゃないですかィ」
あと少しなんだし。
うっかりと続けてしまいそうになった言葉を飲み込んで肉まんを食べながら歩き続ける。その時俺はどんな顔をしていたのだろう、土方が諦めたようにため息をついて総悟の頭をコツンと小突いた。
「今度なんか奢れよ」
「へーィ」
「…信用ならねぇ返事」
(アンタだって)
こうやってどうでもいい話をしてふざけながら一緒に帰れるのもあと何回出来るのだろうと、そんな疑問がふと過る。土方はこの春高校を卒業するから、夕焼けに照らされた河川敷をじゃれ合うようにして歩くのもそう長くは続かない。
何に対してもリミットがある。永遠なんて言葉がこの世界にないのは誰に言われたわけでもないのに在り得ないことだと冷めた自分が言っている。
小さい頃は無邪気にその言葉を信じていた時もあった。けれどいつまでも二重飛びに苦戦する子どもではいられない。
暫くぶらぶらと歩いていると、ぷぉーと抜けるような金管楽器の音が聞こえてくる。
川に向かってトロンボーンを構えた学生服の女が、ひとりそこで練習をしていた。
土方はいつもここで足を止める。そして土手沿いの芝生に腰を下してその練習を見守るのも、いつものことだった。
普段と変わらないそれに総悟は何も言わず同じように腰を下す。
瞳に映る世界のすべてが夕焼け色に染まる中で、一心にトロンボーンを吹く彼女の姿は風景に溶け込んで一枚の絵のようで、とても綺麗だった。
歩きながらどれだけ大声を出して言い合いをしていても、この場所に来ると土方は黙り込んで座る。蔑ろにされたようで総悟はそれが面白くなくて、横からいくら話しかけても上の空で、終いには「ちょっと黙ってろ」と言われて以来、総悟は口を出さないことにしている。
抱えた両膝の上に組んだ両腕を乗せて、顎を乗っける。チラリと土方を窺えば、土方は瞳に夕焼けを映してじっと逸らすことなく女を見ていた。
総悟はその目が何を意味するのか知っている。いや、総悟だから、土方に想いを寄せている総悟だからこそ無表情の中に見えるその些細な変化に気付いていた。
取りこぼさないように自然と土方の言動を目で追っているが、土方がこんなに羨望の眼差しを向けるのはこの時だけだ。
手に入らないものを手に入れたいと一心に望んでいるそれは、総悟が土方を見るものに近い。
ああ、土方さんはあの人が好きなんだ。
痛感する。それでもここに居るのは土方と一緒に居たいという欲望からで、どっかに行こうと文句を付けないのは心のどこかに昔姉から教わった「その人が幸せならいい」という言葉が根付いていて、それを見届けたいという思いもあったからだ。
全く、妙なところで健気になったものだ。
視線を少女に戻して総悟はこっそりと息をついた。
楽器には全く詳しくないのに、これのおかげですっかりトロンボーンの音色だけは覚えてしまった。
あまり聞き覚えのない曲は課題曲なのだろうか、少女は何度も何度も吹いては同じところでずるりと失敗してしまう。いいかんじで作り上げていた流れが急にばっさりと切られたみたいに、音を外す。
土方の視線を追って同じ景色を目に映してはいるけれど、土方の目に映っているのは全く違うものなんだろう。
夕焼けに照らされてキラキラと光る輝かしい世界、昔総悟が見ていたようなあの眩しい世界を見ているのだろう。
(俺ってこの場所と縁がねェのな)
笑えない。また失恋するのかと思うと心が痛かったけれど、近藤の時のように暫く時間が経てばこれもいい思い出になるのかな、と思う辺り、もう自分は諦めがついている。
冷たい風が吹いて音が流れる。冬の空気は音色を遥か彼方まで運ぶように、澄みきっていた。
彼女が成功するまで土方は見守るのだろうか。あの人のように。
そうであれば成功しないでくれと思う反面、早く成功してこの胸につっかえる苦いものを早く吐きださせてくれとも思う。
「総悟」
「なんです?」
「成功すると思うか?」
「さァ」
土方の声に総悟は視線を土方に向けたけれど、彼の目は彼女から逸れていなかった。冷たい風に黒い髪が揺れて、夕焼け色に染まる端正な横顔を見せたまま土方が続ける。
「俺は、成功すると思う」
魔法の呪文のようだった。
確信を持ったような強い言葉を土方が言った途端、彼女がいつも躓くパートに入る。
総悟はハッと息を飲んだ。言葉で表せないぞわぞわとした何かが迫り上がってくるようだった。それはいつもと変わらない世界がパっと変わるような、期待に満ちている。
音程を外すところに入る。
息をのむ。
見守る中で、彼女は、躓かなかった。風に音色を乗せてずっと吹くことが出来なかった続きを奏でる。
総悟は呆然とした。本当に魔法を見せられたみたいで、目の前の出来事がすぐに理解できなかった。
「土方さん、成功した…!」
「ああ」
人ごととは言えずっと見守っていたんだ。
興奮を隠しきれない声で土方を見上げると、土方が嬉しそうな顔をして頷く。夕焼け色に染まったそれは総悟ですら見たことがなかったもので思考が止まる。
忘れていたことを突き付けられた。土方が彼女を好きなことを思い出して、急に冷たいものを飲み込んだみたいに気分が一気に落ち込んだ。
「総悟」
決意を含んだ声色で名前を呼ばれる。見やる先で土方が見たこともないような柔らかい笑みを浮かべて総悟を見ていて、総悟は息を飲む。
姉が教えてくれた言葉を心の中でなぞった。何があっても気丈に送り出そう。気付かれないように拳を握る。
あの子の演奏が成功したら言おうと思ってたんだと土方が教えてくれる。
知ってまさァとはいえず、「へぇ」と興味がなさそうな声を返した。
成功して良かったじゃねェですかィ、とっとと行ってきて告白してきなせェと言おうとした総悟より先に、土方が告げる。
「俺、総悟が好きだ」
思っていなかった言葉に思考も動きも雁字搦めに絡まって、すぐには何を言っているのか理解することが出来なかった。
暮れる夕日が惜しむように強く世界を照らす中で、その色に染まった土方を見ているとそれがすべてのように思えた。
「…え? 何?」
思わず聞き返すと、土方が柔らかい目で演奏が成功して嬉しそうに笑っている少女を見ながら言う。
「あの子が失敗しなかったらお前に告白しようとずっと思ってたんだ。もうちょっとで卒業だからその前にって」
「いつから俺の事…?」
「わっかんねぇ。俺が知りてーよ」
擽ったそうに土方が笑う。
もう一度こっちを向いた土方の顔を見ると、例えじゃなくて本当にドクンドクンと心音が煩いほどに高鳴った。
諦めていたものを不意に渡されてどうしていいのか分からなくなっていた。パニックだ。けれどそれを押し返すように、じわじわと時間を経つにつれ沸き起こる歓喜が全身を駆け巡る。
土方は返事を待っていた。
それはさっき「成功する」と言った時と同じように自信に満ちた顔だった。嗚呼、バレていたのかもと思う。確信染みたその顔が憎らしい。けれど非常に残念なことに、総悟は土方の期待を裏切るような言葉を持っていなかった。総悟の手の中にあるのは土方をそれ以上に喜ばせる答えのみ。
「俺も好きです」
夕焼け色に染まった世界が眩しくて嬉しくて目を細めてそう告げれば、夕日に照らされた土方が嬉しそうに笑った。多分総悟は、この瞬間をずっと忘れないだろう。
込み上げた感情のまま笑みを浮かべると土方の腕が総悟を抱き寄せて、夕焼けを映していた世界が真っ黒になった。嗚呼土方の腕の中なんだなって、そう思う。
月日は経っても夕焼け色はちっとも変わらなくて、高鳴る鼓動も嬉しさもあの頃と変わらない。
夕日に照らされた世界がたった一色に染められる。それは明るくてきらきらと輝いて、総悟にとってどの時間よりも光り輝く美しい瞬間だった。