翌日、ゲンとカマンドールの力を借りてユンファたちは急流の先、リュウカンが隠れ住む庵へとやって来た。
毒を無効化できる薬を作るというリュウカンの協力なしに、あの猛毒を振るうスカーレティシアの薔薇を攻略することは出来ない。
しかしそのリュウカンは突然現れたミルイヒの手によって、連れて行かれてしまった。
場所はソニエール監獄。
ゆったりと、闇が忍び寄ってくる。
きみにできること3 |
ソニエール監獄の中、リュウカンを助け出し逃げる最中にユンファたちはミルイヒと出会った。
―いや、待ち伏せされていたと言ったほうが正しいだろう。
狭い一室でフリックやビクトール、グレミオが武器を携え無防備に立っているミルイヒと向き合っているが、しかしミルイヒは少しも動じていないようだった。
まるで勝機があるとでも言いたげで、下手に出ることができない。
背後にリュウカンを隠して守るように立ち、ユンファはどうしたものかと必死にここから抜け出す隙を見つけようとしていた。
敵中の中だ、どんな仕掛けがあるかわからない。
様子見と全く仕掛けてこない一行を見回して、派手な衣装のミルイヒは高らかに笑った。
「おや? また会いましたね。コソドロが入ったと聞いて来てみたら、あなたたちでしたか」
「良い所で会ったぜ。手間が省けてありがたいってもんよ。ここで決着をつけようじゃないか」
ビクトールが剣を掲げて、見栄の入った余裕さでにやりと口を引く。
ミルイヒは口元をレースの袖で隠し、これはやばんなと言っただけだった。
そしてこうも言う。
剣の腕は後れをとりはしませんが、今は生憎そういう気分ではないので、あなたたちにはこれを差し上げましょう―――と。
「……?」
そしてミルイヒがポケットから取り出したのは、ひとつの小瓶だった。
その瓶の中で何かが小さく蠢いている。
それを見て咄嗟に半歩後ろに足を引き、身構えた。
小さなものがうようよと、そこに入っているのがわかった。
あの薔薇の花粉とは違う、それよりも明るい色の――けれどやはり不気味なモノ。
「見えますか、この瓶。この瓶には、私の苦心の胞子がたくさん入っています。
すごいでしょ? 大変だったのですから。この胞子はですね、人間を食べちゃうんですよ」
冷や汗を掻きその顔に恐怖が浮かんだ様を認めて、ミルイヒはそれを心底楽しむように笑った。
ひとつひとつの言葉を言い含めるように強調付ける。
フリックがぎょっとして言った。
「なんだって! そんなものをどうする気だ!」
「それは……、こうします」
にやりと。
道化師のような笑みを見せたかと思うと、ミルイヒは小瓶を高く掲げ――――
それを思いっきり地面へ叩き付けた。
がしゃんと瓶が割れ、途端に中から蠢く胞子がうようよと広がっていく。
こんなものが人を食うというのか。
俄には信じ切れないものであったが、けれど先ほどのミルイヒの言葉が頭の中を反芻する。しかもその胞子の異様に明るいオレンジの原色色が、さもそれを確証するようでもあった。
「あらあら、割れちゃいました。さあ早く逃げないと危ないですよ」
にやりとそう言って気味の悪い笑みを残し、ミルイヒはさっと出口へと走り去る。
ビクトールが慌ててその後を追うが、ミルイヒの出て行った扉にはきっちりと鍵がかかっており開きそうにない。もちろん監獄だけあって鉄の扉、打ち破るなんてことはできなかった。
そうこうしている間にも胞子は広がっていく。
密閉空間だ、窓もない。誰もが最悪の事態を予想した。
「ぼっちゃん! みなさん! 早く扉の外へ!」
叫ぶ声を聞くと、グレミオが反対の扉を開けるレバーを押し、退路を作っていた。
奥は行き止まりで牢屋が連なっているだけだが―大丈夫、逃げ延びればなんとかなる。
ビクトールたちは急いでその奥へ逃げ込んだ。
「さあぼっちゃん、早く!」
急かす声に、ユンファも広がっていく胞子を見た後奥へ足を向けたが、
けれど横目で見たグレミオの、その表情に足が止まった。
必死な目、しかしそれだけではない色。
それは今までにユンファが見たことのない色だった。そんな目は見たことがない。
一体何を考えているのか、すぐ顔に出るグレミオなのに、ユンファにはわからなかった。
「グレミオ……? お前…」
「ユンファ! 早く来いっ! 胞子がそこまで来てるぞ!」
「ぼっちゃん、さあ早く!」
グレミオやビクトールたちが呼び急かす。
なのに動かない足に業を煮やしたのか、グレミオが――、
「ぼっちゃん…!」
―――その瞬間、どんっ、と。
何か言いたげな目をするユンファの背を、
グレミオは思いっきり部屋の外へ突き飛ばした。
そして扉が閉まるのはそれと同時だった。
重い扉の閉まる音がする。
ユンファは刹那呆然としたが、けれどそれは一瞬であった。
厚い鉄の扉に駆け寄ると、必死にそれを叩いて叫ぶ。
「おい! グレミオ! 何やってるんだ、早く来い!」
どんどんと叩いては叫び、ほとんど殴りつけるように叩いた。
扉と扉の隙間さえなく、向こう側がちっとも見えない。
まさかという言葉が頭をうろつく。
まさかグレミオはそこに残るというのか。人食い胞子が溢れるその部屋に、ひとりで。
そのことが何を意味するかなんて、考えたくなかった。
それなのについさっき見た、何かを決意したグレミオの目が浮かぶ。
否定するようにユンファは扉を叩き続け、叫ぶしかない。
「とびらを開けろ! グレミオ!」
「ぼっちゃん。グレミオは初めてぼっちゃんの言うことに逆らいます」
「グレミオ、開けろっ!」
扉越しに聞こえるグレミオの声。
けれどそこに諦めの色が混じっているのを感じ取って、ユンファはさあっと血が引いていくのをどこか遠くで聞いた気がした。
ぞわりと何かが駆け上がる。
気持ち悪かった。開けてほしかった。
力いっぱい扉を殴りつけてユンファは叫ぶ。
ここを開けろ、グレミオ。大丈夫だ、何とかなる。全員で無事に抜けられる方法だってあるんだ。だから開けろ。ここ開けるんだ、グレミオ。グレミオ!
…本当は抜けられる方法なんてない、見え透いた嘘だったけれど。それでもその言葉に望みを持ってこの扉が開くなら何でもよかった。
きっとどうにかなる。やってみせる。
しかしその重い扉が開くことはなく…。
手に血が滲み出し声が枯れ始めが、気にしなかった。
「もうやめろ、ユンファ」
グレミオの固い決意がわかったとでも言いたいのか、ビクトールがユンファを扉から離しにかかる。
けれどそれを振り切ってユンファはまた扉に駆け寄り、叩き叫ぶ行為を繰り返した。
ぼっちゃん、と、懐かしいその声を聞いた。
「ぼっちゃん。聞こえますか?
すいません。グレミオはもうこれ以上、ぼっちゃんをお守りすることができそうにないです」
「グレミオっ! いいからここを開けろ!」
「でもぼっちゃんはグレミオの助けなど必要ないほど、成長なされましたね。
ぼっちゃん………。
ぼっちゃんは立派になられましたよ。その姿をテオさまにも見せたかった」
「グレミオ……」
扉に挟まれた声。ひどくそれが遠かった。
たった扉一枚だ。その扉の向こうにグレミオはいて、そして今そこで―――。
扉に手を付けたまま血の流れるその手を握り締め、ユンファは崩れ落ちて冷たい扉に額を押し付けた。
泣いた。
嗚咽を噛み殺して名前を呼ぶので精一杯だった。
こうして扉にくっ付いていると嫌でもわかる。
何かが蠢いている音だとか、グレミオの息遣いだとか、問いかける声は優しくても苦しそうな呻きだとか。
歯がゆくてならない。扉一枚隔てているだけなのに、助けることができない。
違う、違うんだ、グレミオ。
お前の助けが必要とかじゃなくて、俺は――――…。
「ぼっちゃん…。
そろそろお別れみたいです。目が霞んできましたよ…」
「グレミオ…?」
その聞こえる息遣いが浅くなってきて、ユンファは顔を上げた。
グレミオの弱弱しい、なのにいつもと何ら変わらぬずっと見守ってくれていた声が聞こえる。
ユンファにはそれが笑っているように思えた。
「ぼっちゃん…。ぼっちゃんはグレミオの誇りですよ。
お願いです。ぼっちゃんは最後まで信じることを貫いてください。
それがグレミオの……最初で、…最後の…願いで………す…」
「…グレミオ? グレミオ! 返事しろ、グレミオっ!」
どんどんと叩くその音も声も、それ以外何も聞こえない。
扉の向こうでするはずの息も呻きも、もう何も聞こえなくて。返ってくるはずの答えもない。
グレミオが死んだということだった。
ユンファはただ泣き崩れた。
いなくなったという実感が全く湧かなくて、何度も名前を呼んだ。
けれど返ってくる返事はなかった。
それからどれくらい経っただろうか。
重い扉ががちゃりと開き、光が差し込んできた。
見上げるとマッシュが軍勢を率いて迎えに来ていた。
ユンファの無事の姿を認めて、マッシュはゆるく息を吐く。
「ご無事でしたか? ユンファどの。帰りが遅いので軍勢を率いて来てみたのですが…」
マッシュの言葉を聞かずうちに、ユンファは扉の向こうへと飛び出す。
もしかしてという小さな希望があったのかもしれない。
あれほど開かなかった重い扉の、先。
…しかしそこに思い描いたグレミオの姿は欠片もなく。
あったのは、グレミオの身に着けていたマントと斧だけであった…。
いなくなった。