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いつもレジカウンター越しだった存在が俺の隣を歩いている
何でもない風を装いながら俺は、これは夢じゃないかと未だに信じられない気持ちでいる。
店の蛍光灯じゃなくて太陽の光を受けてサラリと輝く亜麻色の髪。
濃い青色と思っていた瞳はキラキラと乱反射した海色。
いつもと違う状況に心臓が跳ね上がった。
恋を初めて知ったガキでもねぇのに「これが恋か」なんて若干の呼吸困難。
手をポケットに入れて握ったり開いたりを繰り返せば、それはちょっとだけ汗ばんでいた。
(こんな風に歩けたらと思っていた)
ただの店員と客じゃなくて普通に歩きながらくだらない話なんかしたりして笑い合えるような、そんな自然な距離になれたらいいと思っていた。
もっと話をして沖田のことを知りたい。俺の話を聞いて欲しい。有象無象の中のひとつじゃなくて沖田に俺という存在を知ってほしい。
そう思っていた―――けれど。
(このタイミングは酷過ぎる…)
胸がときめく度に嘲笑うかのように先程のシーンが繰り返し繰り返し流れて、その度に俺の気は重くなる。
空き缶に気を取られたとはいえ喧嘩相手に投げ飛ばされてゴミ捨て場に突っ込んで、挙げ句助けられたなんて最悪の一言だ。
もっと他のタイミングがあったはずだ。今日よりもマシな日なんて山ほどある。それなのになんで今日のしかもこのタイミングなんだ…。
(情けないったらありゃしねえ)
頭を抱えたい衝動を抑えて(隣で突然頭を抱えたらただの変人だ)ため息ひとつ溢せば、隣で沖田がこくりと首を傾げた。
「どうしたんですかィ?」
「いや…別に…」
「そういや怪我とかしてねェんで? 綺麗にゴミ捨て場に突っ込んだんで俺ァびっくりしやしたよ」
(そうだ、ゴミ捨て場!)
ハッとその時の光景を思い出した。クンクンと鼻を鳴らしてにおいを嗅ぐと微かににおう悪臭。
やべぇ!! 臭ぇ!!!
鼻を刺激する生臭いそれは疑いようなくゴミの臭いだ。
そんな状態で想い人の隣を歩くなんて冗談じゃねぇ!
青ざめて俺は、無言で沖田と距離を開けた。しかし目敏く気付いた沖田が不思議そうな顔をする。
「なんで離れていってるんですかィ?」
「…いやだって、クサいし」
げんなりと声を落としてぼやくと、ははっと沖田が噴き出した。そして悪戯っ子っぽく笑うとせっかく俺が開けた距離を詰めてくる。
近寄ってきて壁と沖田に挟まれると俺にはもう逃げ道がなかった。
「おい」
苛立たしく呼べば、
「俺、人の嫌がることすんの好きなんでさァ」
なんて宝を見つけたみたいにキラキラとした笑顔で言われて、なあ俺は一体どうすればいいの。
いくら離れろって言ったって、沖田がにおいを気にしないようだからもう何も言わない。
壁と自分で俺を挟んだまま沖田が隣を歩いて、俺も沖田の隣を歩く。
言葉もなくただなんとなく連れだって歩きながら俺は、俺の人生でも1・2を争う最悪な出だしだったがこれはこれでチャンスじゃねぇかと思い始めていた。
自分でアクションを仕掛けなければ、どれだけコンビニに通う毎日を繰り返してもこんな状況には出会えない。それがアクションを掛ける前にころりと転がってきたのだ。これを活かさずしてどうする。
(なんて話し掛けたらいいんだ? 今日は良い天気だな…? いや、それじゃあ「そうですね」の一言で会話が終わっちまう。今日バイトは? 週5ぐらいの割合で入ってるよな、って俺はストーカーか。じゃなくて…)
話題ってどうやって探すんだっけってうんうん唸って横目でチラリと沖田を見る。と、当たり前のようにあったそれに気付いた。
「剣道でもやってんの?」
沖田の肩に担がれた竹刀を指差す。
強烈な速さの一撃を繰り出していたのを思い出して、細い体と中性的な顔をしているのに意外にも有段者なのかもしれないと見つめていると、「ああ」と沖田が竹刀を揺らした。
「違いまさァ。ちっちゃい時近所に住んでいた人から貰ったんです。素振りぐらいは教えてもらったんですけど、ありゃあ剣道っていうよりチャンバラでしたねィ。懐かしいや」
その時のことを思い出してか沖田がふんわりと笑う。
(かわいい…)
一瞬見惚れて慌てて首を横に振った。誤魔化すようにゴホンとひとつ咳払い。
でもそっか。小せぇ頃は結構やんちゃだったんだ。
沖田のことがひとつ知れたことが単純に嬉しくて、柄にもなく温かい気持ちになる。
「じゃあなんで竹刀なんて持ってんだよ?」
「ガキたちが持ってこいってうるせェんでさァ」
「ガキ…?」
言葉をなぞると沖田が「あ」という顔をした。失敗したと言いたげに口元を押さえて明日の方向を見やる。
聞いてはいけないことを聞いてしまっただろうか。戸惑う俺を見て、「あ、すいやせん」と沖田が慌てて手を振った。
「俺、孤児院の出なんでさァ。ガキっていうのはそこの子どものことです。姉ちゃん…俺の実の姉なんですけど、人手が足りなくてそこで働いてて優しいからすっかりガキたちの人気者で。んで俺が竹刀持ってるって言ったらそれで姉ちゃんを守るから貸してくれ! ってガキたちが譲らねェんで届ける途中なんです」
「……そうなのか」
「同情とかされるの嫌なんで、あんま言わねェんですけど。そういう事情なんで、バイトも無理言ってフルで入れてもらってんでさァ」
どこか照れたように言う沖田に対して、思ってもいなかった言葉に思わず俺はぽかんとしてしまった。
コンビニでバイトしているのもその為なのだろうか。そこら辺の奴らと一緒で小遣い稼ぎでバイトをしているのかと思えば、そんな甘っちょろいもんじゃなかった。
孤児院の出だから大変だろうと同情するつもりはない。そうではないが到底その事実が沖田に結び付かなかったのだ。
俺は沖田の目が好きだ。そのまっすぐとした青い目はどこにも陰りがなく生き生きとしてそんなものを彷彿とさせない。
「すいやせん。べらべら喋っちゃって」
「いや…。じゃあ遅くまでバイトすると姉さんや子どもたちが心配するんじゃねぇか?」
「俺独り暮らしなんで」
思わず沖田の上がりの時間まで知っているようなことを言ってしまったが、沖田は特に気にしていないようだった。
それよりも俺は、独り暮らしだと言った沖田の言葉が気になった。てっきりまだ孤児院に居てそこから通っているのかと思っていたが、そうではなかった。
改めて沖田を見るが制服を着た沖田は俺となんら変わらない学生だった。経済的にも精神的もまだ親に甘えている俺と違って、独りで立っている沖田に正直驚きを隠せない。いつから独りで暮らしているのか問えば中学生からだという。孤児院に居たら世話するガキがもう1人増えて出費も増えやすからねェとなんでもない風に言う。
「寂しくないのか…?」
足を止めて思わず問いかけると沖田はきょとんとした眼で俺を見た。それから振り返ってこっちを見て口角を吊り上げるとにししと笑う。
「俺はちっちゃい頃十分姉上に甘えたんで、平気でさァ」
正直いって俺は、沖田の容姿に一目惚れをした。
コンビニの店員である沖田とただの客である俺とで何かしら接点があるわけでもなく、交わす言葉もなく、沖田の内面など全く知らなかった。
それでもひとつでも好きなものがあれば他のことは二の次で、性格がどれだけ悪くてどれだけ相性が悪くても沖田がその面であれば大抵のことは我慢出来ると、そう思っていた。
けれどやられた。俺の完敗だ。先のない底へ一気に落ちる。
長い時間ではないにしろ言葉を交わして気付く。その真っすぐとした強さ、優しさ眩しさ。
容姿だけじゃない、俺はコイツが好きなんだって、改めて思い知らされた瞬間だった。
「沖田…俺…」
先に歩き出した沖田の背を見ていると自然と声が零れて沖田が立ち止まってこっちを向く。
ああ俺は何を言うつもりなんだろう。自分の口から転げ落ちるだろう言葉が分かっていながらも、俺はどこか他人事のように感じていた。
もう身の内に留めておくなど不可能だ。否、止めるつもりもない。溢れる気持ちは一気に器からあふれ出す。体中が心臓になったように大きくドクンと脈打った。
「俺、好きな奴がいるんだ」
沖田が大きな目でひとつ、瞬きをする。
この恋が実るかなど誰にも分からない。そもそも沖田にとってはただの客だ。あっさりフラれるかもしれない。
(それでもいい)
それよりも俺がお前をどう想っているのか知ってほしいという感情のほうが強くて、ギュッと拳を握りしめる。
「俺が好きなのはっ」
「偶然ですねィ」
斜め上を見てどこか考えるような素振りをしていた沖田は、俺の言葉を遮って笑った。俺の一世一代の告白はクタリと折れて、詰めていた気が一気に抜ける。
え? という顔をするとこっちを向いた沖田がにこりと笑ってこう言った。
「俺も好きな人がいやすよ。常連で昔から絶賛片思い中なんでさァ」
…俺はその時の、沖田の輝く営業スマイルが未だに忘れられない。