ムーンスト


 湯を沸かしてカップに注ぎ市販の粉を溶かしてコーヒーを作ると、それを持ってリビングのソファーへと腰を下した。ソファーと並行したテーブルの上には俺が持つカップとは別に、もうひとつカップが置いてある。もこりと柔らかそうな湯気が立っているそれは普段俺が飲むことがないホットミルクで、しかし入れた時からちっとも減っていないことにすぐに気付き自然眉が寄る。
 コーヒーに口をつけつつカップの前に座る人物を見やるが、微動だにしないソイツは目を開けたまま寝ているのかと思うほど、ぼんやりとした虚ろな目で宙を見ている。
 自分がどこに居るのかも分かっていないのかもしれない。
 そう思うと何かが重くのしかかるようにどっと疲れた。音を立ててカップをテーブルの上に置くと、ガシャンという音で夢から覚めたようにソイツの肩がビクリと跳ねる。
 初めて認識したように、隣に座った俺をまじまじと見た。

「ひじ、かたさん?」

 言い慣れないといった感じで口の中で不器用に名前を転がす。
 その言い方もどこか怯えたような声色も全く俺の知るものではなくて、釈然としない思いを募らせる。これが本当にあのワルガキなのかと心の底から疑う。姿形が同じで中身だけを消去したようなそれが薄気味悪くもあった。

「冷めるぞ」

 突き放すような声で告げる。言われた言葉がすぐに浸透しないのか二三度瞬いてからぼうっとテーブルの上のカップを眺め、妙に細い腕を伸ばす。緩慢な動作で水を怖がる猫のようにちびっとだけミルクを口に含んでまたぼんやりとする。
 コーヒーを飲みながら俺はその様子を眺めていたが、本当にこれは人間なのか、人形が動いているだけではないのかという疑いが増すばかりだ。それだけコイツには精気というものがなかった。

(信じられねえ)

 交番に来て生意気な台詞を吐いたり人をからかったりしていた沖田の姿が浮かんで消える。
 同一人物だなんて俄には信じられなかった。記憶を無くした沖田を、俺は直視出来ない。


 沖田を見つけたのは、本当に、偶然だった。
 夜勤組と交代してスーパーで買い物をして家に帰る途中、通りかかった公園に何気無く視線を向けて俺はそれを見つけた。
 頼りない街灯の明かりに照らされる中、亜麻色の髪をした少年がギコギコとブランコに乗っていて目を瞠る。

「沖田…?」

 久しぶりにその名前を口にして、けれどその呼び掛けになんの反応も示さない。
 人違いだろうかとまじまじと見やるが、どこからどう見ても沖田総悟にしか見えず、俺は首を傾げるばかりだ。
 双子だろうか。いや、双子でも苗字は同じだろう。そんな押し問答を心中で繰り返す。

「沖田、総悟?」

 ブランコに座るソイツの目の前に立ち、再度呼び掛ける。
 どこを見ているのか分からない虚ろな青い瞳が、ゆっくりと見上げて俺をその視界に入れた。その瞬間俺はゾクリと背を粟立たせる。
 姿は沖田だが、纏う雰囲気やその瞳の輝きが以前の沖田と全く違っていたからだ。こんなのは知らない。

(これは誰だ…?)

 俺を見ているのか宙を見ているのか分からない瞳のまま、その口がアンタ誰?と常套句を吐き出して、俺は真っ青になる。

 これでも曲がりなりにも警察官だ。未成年の少年をここで見逃すわけにもいかず、とりあえず呼び掛けても応じないから(というより言葉を理解していないかのように何も反応しない)、その手を引いて家まで連れてきた。本当なら署にでも行くべきだろうが、全く知らない人物でもない。
 まず俺に出来ることはなんだと混乱した頭を働かせ頭の片隅に残っていた近藤さんの番号を引っ張り出して電話を掛ける。
 呼び出し音がやけに長く感じた。「はい」という声が聞こえたと同時に近藤さんかと確認し矢継ぎ早に沖田総悟の名前を出す。
 沖田の名前を出した途端、受話器の向こう側で近藤さんが息を飲んだ。
 そして小さく、こう言う。
 「総悟は死んだよ」と。

「……………」

 頭の中が、真っ白になった。
 背後でぼんやりと佇んでいる亜麻色の少年をゆっくりと振り返る。
 じゃあコレは、誰だ。

 子機を握り締めたまま二の次が出ない俺に向かって近藤さんが言葉を続ける。
 実際に葬式に出たわけではないが、総悟の母親がそう言っていた。
 あの子は死んだわ。真っ赤に濡れた唇でそんな言葉を吐き出したそうだ。

「俺もまだ信じられん。今も道場に総悟が居るような気がしてな」
「…近藤さん、アンタは沖田が死んだと聞いただけで、実際沖田の死体を見たわけじゃないんだな」
「? あ、ああ」
「沖田は生きてる」
「え?」
「生きて、今俺の隣に居る」

 しっかりと一言一言をはっきり告げると今度は近藤さんが黙った。
 沈黙した子機を握り締めたまま俺はそっと亜麻色の人間を窺い見る。雰囲気も違うし沖田と呼んでも全く反応しないけれど、これは沖田に違いない。こんなに瓜二つの別人が居てたまるか。これが沖田でなければ人間ではないと、そこまで考える。

「総悟は生きているのか…?」

 震えた男の声に力強く頷いた。

「ああ。でももしかしたら記憶がないのかもしれねえ。名前呼んでも反応はねーし、目は虚ろだし」

 先ほどの「アンタは誰?」という発言といいこの態度といい、沖田は記憶がないのかもしれない。ドラマみたいなことを考えて、でもこれは紛れもない現実だと拳を握りしめる。

「そうか、よかった…生きていたか…」

 近藤さんの声が涙声になった。

「今夜は遅いからこっちで引き取るが、明日引き取ってくれないか?」
「ああ分かった」

 明日に会う約束をして、近藤さんとの話しが終わり一息つく。
 後ろを振り返ると電話中一言も喋らないどころか一歩だって動いていない沖田がただただそこに佇んでいた。
 振り返った俺に気付き視線を上げて青い瞳でじっとこっちを見る。初めて物を見た子どものようなまっすぐとした目だった。

 初めて、沖田と会った時のことを俺は思い出した。
 扉を開けると椅子にちょこんと座った沖田がやさぐれた目をしてこっちを見て、何もかもが敵とでも言うような、なつかない猫を思わせる目で、けれど光を浴びた海のように生き生きとした青色をしていた。
 その時の瞳とは似ても似つかない濁った海のような目が俺に痛いほどの違和感を突き付ける。
 しかし

「ひじかたさん」

 たどたどしく呼ぶ声や耳に届く音は記憶の中にある沖田のものと重なり、俺を揺さぶる。



 そこまで思い出した俺は仕事で疲れこの騒動にも疲れた体をソファーに沈ませた。
 近藤さんに電話してからたった2時間しか経っていないのに、ひどく長く感じる。溶け込まない空気が重い。家に居るってーのに息苦しく感じて疲れる。存在が相容れない。

 電話で近藤さんに名乗ったのをどうやら覚えたらしく、沖田は俺が「ひじかた」という名前だと認識したらしいが名前を呼んだのはその一度きりだった。
 何気無く観察していたが、何を見ても以前の沖田との違いが目に付いてだんだんと押し隠せない苛立ちが募る。
 本当にコレは沖田なのだろうか、実は全くの赤の他人ではないのか。
 沖田総悟であると認識している反面、それがどうしても受け入れられなかった。強い拒絶が渦を巻く。

 言葉に出来ない苛立ちを棘のあるため息に変え、重たい腰を上げてクローゼットから予備の掛け布団を取り出した。
 それを持って戻ってきた俺を不思議そうに沖田が見ている。

「俺はソファーで寝るから寝室を使え」

 暗に今すぐここをどけと言う。
 けれど意味が分からないとばかりにぱちぱちと瞬きをするから、余計に苛立ちを覚えて舌打ちをする。

「行けよ」
「………」
「行けって」
「………」
「チッ」

 沖田は呆然としたまま動かない。布団を放り投げてその手首を掴むと引っ張るように寝室へと行き、無理やりその体を押し込んでドアを閉めた。
 バタンッ。
 無機質な音が響く。
 ずるずると足を引きずるようにリビングへと戻り俺はソファーへと落ちた。
 額の上に手を置いて翳る視界で天井を見上げる。胸に苦いものが広がっていた。アレは沖田であって沖田ではない。俺はアレを知らない。

(でも現実だ)

 掴んだ手の細さを思い出して、幽霊なんかじゃなくて本物なんだと息を吐く。
 自分自身で何がどうなったんだと思うほど、無性にやりきれなかった。



 翌日、昨日よりか落ち着いたもののまだどこか怯えている沖田を連れて、近藤さんのところに行った。
 待ちきれず家の前に出てウロウロしていた近藤さんは沖田の姿を見るなりどばっと滝のような涙を溢して沖田に抱き着いた。
 総悟、総悟っと呼ぶ。沖田はされるがまま呆然としていた。
 以前なら近藤さんが迎えに来ると申し訳なさそうな顔をしながらも嬉しそうにしていたのに、と、また記憶を無くす前の沖田と比較して俺は鈍い痛みを感じる。
 背を向けて俺はその場を後にした。
 そのまま仕事に戻り、何もかもを忘れるように自ら忙しくして忙殺を望む。
 書類を書きながらふと顔を上げれば、交番のドアに切り取られた外が広がっていた。
 色付いた景色をバックに俺の知る沖田がひょっこりと顔を出して「また来やした」と笑う、そんな幻影を何度も見た。
 しかし瞬きをした瞬間にそれが掻き消えた現実が重くのしかかり、その度に俺は何度も打ちのめされる。