ムーンスト


 この感情を知っている気がする。
 けれどそれがなんなのかは分からない。
 分からないままそれを消すように考え込まないように仕事をする。

 沖田を近藤さんに届けてから2週間が経った。
 沖田の母親には連絡がつかなかったらしく、とりあえずうちで預かっていると近藤さんが電話で言っていた。
 そうか、俺も警察だ。出来るかぎりのことは協力すると義務上の言葉を吐いてそれっきり、連絡はとっていない。
 片隅に追いやったつもりでも寝る間際どうしても全く別人となった沖田を思い出してしまうのが1週間あまり、けれど最近はそれも無くなってきて漸く気に掛けることもなくなってきた。
 そんなある日、出動回数が多くて疲労困憊した体を引き摺って家に帰ると、マンションのドアの前で丸まっている固まりを見つけて俺は足を止めた。
 亜麻色の丸い頭。沖田が顔を上げて俺を見る。透き通っていない青い瞳に血の気がすっと引く。

「土方さん」

 まるでひとつ覚えのようにそう言う。
 忘れ掛けていたはずの沖田がサッと蘇って怒りで血が沸騰した。

「近藤さんは?」

 腹立たしく問いかける俺の声色に対して、沖田の声はどこまでも平坦だ。感情という色がない。

「居ません。ひとりで来ました」
「何か用か?」
「いえ…。でも土方さん来ていいって」
「言ってねーよ!!」

 空気が割れた。抑えきれない感情が怒声となって口から吐き出される。衝動で横の壁を叩きそうになったのをグッと堪えると、ビリビリとマンションの廊下を震わせた声に沖田がビクリと跳ねた。
 違うッ。何を苛立っているんだ俺は。
 怯えた沖田の顔を見ているとまたどうにかなってしまいそうで、チッと舌打ちをして顔を背ける。戸惑いの雰囲気を背中で感じたが一切振り向かず俺は携帯電話を取り出して近藤さんを呼び出した。
 沖田に怒鳴ったことは数知れず、けれどこうやって苛立つことなんてなければ沖田も怯えた表情なんて見せなかったのに。コールの音を聞きながらギシリと奥歯を噛み締める。
 今の沖田の存在に記憶の中の沖田が掻き消されそうだった。



「よお」

 声に顔を上げると、ボサボサの天パがニヤニヤと笑いながら立っていた。半眼で睨めばしかし、ちっとも動じる気配を見せず、然とした顔で俺の隣に腰掛けて「生ひとつー」なんて間延びした声で注文する。

「テメー、呼び出しておいて遅刻たァどういう了見だ」
「おいおい、とてもサツとは思えねェ言い方だな。なに? オタク転職でもした? ヤクザに」

 目が死んでいるくせに妙に口達者な坂田は俺が頼んでいたツマミをそそくさと自分の前に持ってきて当たり前のように食べようとするから、食べるんじゃねーよ!!と睨みつけて奪い返す。恨みがましい目をされたが、無視だ、無視。テメーに分け与えるモノなんて何もない。

「お前ってほんとケチだよな」
「テメーが図々しすぎンだよ」
「あーヤだヤだ。そんなに怒りっぽくなっちゃって。人がせっかく慰めてやろうと思ったのによ」
「なんだよその思わせ振りな態度は。だから食うなっつってんだろッ。っつーかテメーに慰めてもらうことなんかコレっぽっちもねえよ!」

 全くコイツは何をしに来たんだ。
 グラスのビールは既に生温くなっていてそれすらも腹立たしく、一気に喉に流し込む。最近何かと怒ってばかりだと気を抜けば突いて出そうになる舌打ちやため息をともに流し込む。胸に巣食ったどうしようもないやる瀬なさがジクジクと身を蝕んでいた。
 運ばれてきた生と適当に頼んだツマミをつつきながら坂田がチラリとこっちに視線を向ける。ヤケ酒、とぼそりと呟いて、反論する前に坂田が口を開く。

「沖田、記憶が無いんだって?」
「!」
「(目の色変わっちゃって)ちょっと前にゴリさんに会って、そん時に聞いたんだよ」

 坂田はこんななりでも教師で、沖田が通っていた学校とは別の学校に勤めているのだが自分のクラスの連中が沖田と何度かやり合ったらしく、沖田の存在を知っていた。
 さらに詳しく言うなら俺と坂田は中学のクラスメイトで高校も同じだったから近藤さんのことも知っていたりする。
 坂田の口から飛び出した予想外の言葉に一瞬息が止まったが、なんでもないフリをして酒を飲もうグラスを傾け、落ちてくる酒は無く空だと知り、ゴンッと乱暴にグラスをテーブルに叩きつけた。
 その様子を見た坂田がため息と同時にやれやれと首を振る。

「やっぱり荒れてんじゃねーか」
「あ? 誰がッ」
「テメー以外に誰が居るんだよ」
「荒れてねえよ」
「沖田が記憶を無くしたのがそんなにショックか?」

 言われた言葉が理解出来ず、動きも思考も止まる。
 坂田は茶化しているようで妙に真面目な目で

「憧れだったもんな」

 と言う。

「憧れ…?」
「覚えてねえの? 前にオタクが酔った時に自分で言ってたんだぜ。沖田が羨ましいって」

 覚えてない。覚えてないどころか初耳だ。沖田が羨ましいだなんて、そんな自覚すら抱いたことがない。
 そんな馬鹿なと疑いの目を向ける俺に対して坂田は残念ながらと肩を竦めた。

 俺は沖田に憧れていたらしい。
 俺の母親は世に言う教育者で、有名な大学を出て安定した仕事に就くのが俺の、強いては母自身の幸せだと思っていた。だから勉強は勿論息がつげないほどのスパルタだったし、遊ぶ人間も成績も評判も良い人間と母に選別されたほどだ。(だから坂田と近藤さんの存在は特異とも言える)
 俺は母親の言うことに逆らわなかった。不満や不平はいくらでもあったが、それを口から出すのはただの揉める原因で、面倒だと冷ややかに考えていたからだ。言われる通りに従い生き警官になった。家を出て多少解放された気分ではあるが、それでも過去を振り替えると操り人形だった暗い思い出しか垣間見ることが出来ない。
 それに比べて、沖田は自由だった。母親とは絶縁状態だと何でもない声色で言い、だから俺はやりたいことをやるのだと笑って言う。
 やり方は無茶苦茶で見てもられない。自由の意味だって吐き違えているのは一目瞭然。それでも毎日を自由で必死に生きている沖田が羨ましい。その強さが好ましい。
 机に突っ伏してポツリポツリ俺がそう話したのだと、坂田が言った。

「………」

 坂田の言葉が耳に届く度にゴロッと転がっていた固まりの皮が一枚一枚剥がれていく気がした。その固まりから徐々に沖田との思い出とも言えない些細な日常が溢れて、奔放な沖田の姿に眩しさを覚え目を細めた自分を思い出す。

(そうだ。アレは…)

 居酒屋の喧騒が遠く、ぼんやりとテーブルの木目を見ながら俺は、沖田が記憶を失ったのだと知ったあの時の感情を思い出した。胸を抉られるような苛立ちだと思っていた。けれど本当は苛立ちなんかじゃなくもっと深くて冷たい現実が体中に刺さっていたのではないだろうか。

 そうだ、あれは沖田が居なくなったことへの悲しみだった。
 不器用ながらも奔放に生きた沖田を失った、その悲しみ。
 それはどこか失恋に似ている。