気付いた瞬間には全てが遅かった。
どんなに悔やんだとしても、アイツは過去にしかいない。
ムーンダスト
今日も居た。
家の前にポツンと固まりがあり、それを視界に入れた瞬間、自分でも分かる程眉間に皺が寄る。
いくら追い返しても沖田は時々、こうやって俺の家の前に座り込み俺を待っていた。部屋に入れる気はない。いつも冷めた目で見下ろし、不機嫌な声色を隠そうともせず「来るな」と拒絶し近藤さんに電話を入れてそのままだ。暫くすれば近藤さんが来て沖田を連れていく。
部屋へと入りソファーに倒れ込むと、チクタクと進む時計の針の音だけが異様に響いて時間の経過を教えてくれた。現実だと囁く。
白い蛍光灯の明かりが眩しくて、腕を翳して光を遮る。
これでは忘れられることも忘れられない。
フツフツとどうしようもない怒りが沸いていた。それは記憶を無くした沖田を見る度に募る。
坂田の話を聞いてから、俺はこの苛立ちの正体が分かっていた。
俺は自由な沖田にどこか憧れを持っていた。それなりに大切に思っていたんだ。けれど俺が憧れた沖田はもう居ない。居るのは容姿が全く同じ記憶を無くした沖田総悟という人間だ。
俺は、沖田を奪った沖田という人間が憎かった。
(バカらしい)
自嘲を浮かべ、投げ出すように泥という名の夢の中に消える。
夢の中で俺が知る沖田が少しずつぼやけていく。いっそ消えてしまえばいい。そうすれば迷わない。
けれどそう思う心とは裏腹に体は動き、背を向けて行く幻影に手を伸ばす。
届かないと、知っているのに。
暫くして、俺は近藤さんに呼び出された。用件が沖田のことだとはすぐに想像がついて、これ以上乱されたくない俺はありもしない理由を付けてすべて断っていた。
一度目はまだしも二度目三度目となると近藤さんも俺が拒否していると分かっただろう。その内諦めると思っていた俺が浅はかだったんだ。近藤さんはああ見えても結構強引なところがあると知っていたはずなのに、完璧に失念していた。仕事上がりに待ち伏せされてそのまま近くの土手に連れて行かれた。待ち伏せなんて沖田かよ。そう言いかけて、やめる。
「実は総悟を預かってほしくてな」
沈みかけた夕陽を見ながらポツリと言われて、俺は唖然とする。
「な、なんだよいきなり」
「うん、実は爺さんの調子が悪くて、地方に引っ越すことになったんだよ。といっても数年だけどな」
「道場はどうすンだよ?!」
「今の門下生には悪いが、一旦畳んで、また戻ってきたら再開するさ」
近藤さんの声は明るかった。もう何もかも自分自身で決めてしまっている時の声だ。
冗談じゃない。
「沖田も一緒に連れて行けばいいじゃねーか」
不満気にそう言えば、近藤さんが困った顔をして頭を掻いた。
沖田の母親のこともあり、勝手に移動しないほうが良いだろうとの判断らしい。が、それは俺の知るところではない。
「沖田は近藤さんを気に入ってんだ。近藤さんが居なくなればアイツの拠り所がないだろう?」
「だからトシに頼むんじゃないか」
尤もらしい言葉を告げても意に介さず近藤さんは妙に自信満々な声で頷く。近藤さんは俺が首を縦に振るとでも思っているのだろうか。お門違いも甚だしい。
フン、と鼻で笑う。
「俺は無理だ。預かる気もねえし、沖田との絡みだってアイツが交番に引っ張られて来た時だけだ。それも記憶を無くす前の話、今の沖田は俺となんの関係もねえ」
「じゃあどうして総悟はよくお前の家に行っているんだ?」
「ンなの俺が知りてーよ。俺は何度も来るなって言ってんのにあのガキが来やがるんだ」
「…総悟はトシが来ていいと言っていたが…」
近藤さんはふっと笑みを溢すと柔らかく微笑んだ。
だから言ってねーんだって、そう不機嫌に漏らしつつ、近藤さんの笑みが分かりかねて俺は首を傾げる。
近藤さんが可笑しそうに、それでいて嬉しそうに笑う。それは夕日に溶け込んで眩しく輝いた。
「そうか。やっぱり総悟は何もかもを忘れたわけじゃなかったんだな」
「………?」
「トシのこともぼんやりと覚えているんだ、総悟は完全に忘れたわけじゃない」
(でもそいつは沖田じゃない)
近藤さんの嬉しそうな言葉も今の俺にとってなんの慰めにもならず、俺は近藤さんの笑みから顔を背け目を閉じ
「とにかく俺は預からない」
固くなに拒否をして話は終わりだと立ち上がる。
前々から不思議に思っていたのだろう、態度を急変させた俺に焦り、どうしたんだ、前はあんなに仲良くしていたじゃないかと近藤さんが追い縋る。
もうたくさんだ。
「俺はあんな沖田知らねーよッ!!」
溜まっていた吐き出しようのない鬱憤が怒声となって空高く吹き出した。
夕焼けの、ゆるゆると休息していく静けさをそれは引き裂くようだった。
まるで火山だ。吹き出す熱とドロドロと溜まっていく感情を抑えきれず、握りしめた拳の中で爪が深く刺さる。
「確かに俺はアイツが交番に来る度話もしたしそれなりに沖田のことも知っているつもりだよ!けどそれは前の沖田だ!今の沖田じゃねえッ!」
「…な、何を言っているんだトシ。総悟は総悟じゃないか」
「はっ。どこがだよ!いつも怯えたような目ェしやがって、似ても似つかないじゃねぇか!」
「……」
「交番に引っ張り込んで事情を聞いても一度も素直に謝ったことはねぇし、口を開けば生意気なことばっかり言いやがる。俺が知ってる沖田はそういう沖田だよ。アイツじゃねぇ。俺はアレと関わりたくないんだよ」
「…トシ、」
「薄気味悪ぃ」
俺は、気分がこれまでにないぐらい高まっていた。だから俺の名を呼ぶ近藤さんの声に棘があることに気付かなかった。
バキッ。
近藤さんが怒っていると気付いたのは、拳で顔を殴られ思わず土手を転げ、今まで見たことがないほど眉を吊り上げ怒りを露にした近藤の顔を見上げた時だった。燃えるような夕日に照らされる男の目がまっすぐと俺を貫く。
お前は総悟の何を知っているんだ。
言われた言葉が飲み込めず、俺は芝生に尻餅を付いたままただ呆然と近藤さんを見上げていた。
トシ、と低い声で呼ばれる。
「総悟が母親と上手くいっていないのは知っているだろう。俺も深くは聞いていないが、捨てられたと溢していたのを聞いたことがある。総悟はいつもひとりだった。アイツは人に弱味を見せるのを嫌って突っぱねているが、たまにひとりで道場の隅に丸まっていたよ。そんな総悟がどうして怯えた目をしていないと言えるんだ」
「………」
「俺はな、記憶を無くして本当の意味でひとりになった総悟が今まで隠してきた本来のアイツじゃないかと思っている」
近藤さんがふっと息を吐く。
「総悟は総悟だ」
前も今もなく、ただそれだけじゃないか。
笑って告げるその言葉は、難しいことをなしにして感じるままを口にする近藤さんの言葉そのままだった。俺はそんな近藤さんの真っ直ぐとした言葉にいつも胸を打たれる。
でも今回は…。
近藤さんがひとつ頷く。
「預けるなら坂田でもいい。いや、本当は総悟を連れて行ってもいいんだ。沖田の親も放任だったから今更何かを言うこともないだろう」
「じゃあ俺に預ける必要はねえだろう」
「総悟はお前のことを可笑しいと言っていたよ。ネジが1本外れてるにちがいないってな」
「は?ネジ…?」
その時を思い出してか近藤さんが笑って、
「ああ。自分が悪いと分かっているのに一から十まで理由を聞くし、顔に似合わず熱血で、かと思ったら俺に愚痴り出す。俺をそこら辺のガキみたいに扱う、変なマヨラーだってな」
沖田は、あの容姿とは裏腹に喧嘩には滅法強かったのだと言う。沖田と初めて会った時俺は配属されたばかりで、そんなこと知りもしなかったから怖れもしなかったし頭から怒鳴り付けることもなかった。俺に意思があれば相手にも意思がある。皮肉にも親のことでそれが身に沁みていた俺は、事情を聞いて諭したり呆れたりと、事情聴取というよりは悩み相談のようになるべく対等に扱った。後で沖田が凶暴なヤツだと聞いたが俺からしてみればただのひねくれたガキに変わりはなく、扱い方も変わらない。他の人間から腫れ物のように扱われる沖田にとって、俺みたいなヤツは新鮮だったのかもしれない。そしていつからか、沖田にどこか惹かれている俺が居た。
「記憶を無くしても総悟はどこかでトシを覚えている。アイツが初めて自分から近付こうとしたんだ。だから」
近藤さんが手を差し出して、俺を引っ張り上げて
「トシ、総悟の手を掴んでやってくれ」
手を繋いだままにかりと笑う沈まない太陽に、俺は何も言わなかった。
何処をどう帰ったのかよく覚えていない。
とぼとぼと家に帰ると、ポツリと丸まる塊ひとつ。こう何度も見慣れては、最早驚く気力も湧かない。むしろご近所にどう思われているのか、そっちの方が気になった。
「なんで来やがるんだ」
もう何度も問いかけた言葉をまた口にする。けれど怒気もなくこんなに静かに問い掛けたのは初めてだった。座り込んだ沖田も不思議そうに首を傾げる。
「土方さんが来ていいって言ったから」
「いつだ?」
「覚えてません」
「他に何か言ったか?」
「話し相手になってやる」
ポツンとひとつ、光るものがあった。それは以前、沖田が記憶を無くす前に俺が言った言葉だった。
喧嘩をするぐらいならここに来い、話し相手になってやる。
交番に来てもいいという意味だったのだが、多少湾曲して沖田は覚えていた。
「そうか…」
俺はこれが沖田だと認める反面、これは沖田ではないとどこかで期待していたのかもしれない。けれどその言葉を知っているということは、それが沖田であるという紛れもない証拠だった。
その瞬間、胸にサッと流れたものはなんだったのだろう。
首を振り、鍵を取り出す。
「寒いだろう。入れよ」
ドアを開き、沖田を招く。縮こまったまま小首を傾げる沖田の顔を見下ろして、ああ沖田はもう居ないんだなと、秋風のような乾いた感傷が胸の内を駆けた。
初めて今の沖田を沖田として認めた視線の先で、じっとこっちを見上げる空色の瞳がどこか嬉しそうにすっと細まった。