無理にとは言わない。3週間、よく考えてみてくれ。それでもダメだと言うなら総悟も連れて行くよ。
電話口で近藤さんがそう言った。
「3週間…」
ガチャリと受話器を置いて、俺は言葉をなぞる。
ソファーに倒れ込み見慣れた天井を眺めれば、あの日近藤さんに言われた言葉が俺の中でずっと消えずに残っていた。
(お前は総悟の何を知っている)
言われて初めて気付いて、それ以来俺は思考の海から脱することが出来ない。
たどり着いた結論なんてただひとつ。
ああそうだ、俺は沖田のことを何も知らない。
ムーンダスト
電車を降りると、思ったよりも殺風景な駅だった。周辺にスーパーがあるぐらいでごみごみとしていない。
想像していたのと異なる風景にキョロキョロと辺りを眺める俺の隣で、沖田も同じようにぼんやりと首を回していた。
試しに知っているか?と問いかけてみたが、沖田はゆるく首を振って覚えてないと口にする。
連れ立って、タクシーに乗った。
俺は沖田の母親を尋ねた。
沖田の母親は以前の場所から引っ越していて、近藤さんにも居場所は分からなかった。引っ越したのは沖田が死んだと近藤さんに告げた後らしく、単身でごっそりと行方を眩ませた。
職業柄聞き込みをする根気は前から持ち合わせていたから、俺は2週間を掛けて人に沖田の母親のことを聞いて回った。そして漸く、母親が通っていたバーの仲間内にこの町のことを聞き居場所を突き止めた。職権乱用と言われればそれまでだが、「子どもを保護したから連絡したい」という理由は嘘ではない。
タクシーが停まったのは白いアパートの前だった。
沖田という表札を探すが賃貸物件だからかどの部屋も表札を掲げておらず、途方にくれる。自然とため息が溢れた。それを聞き付けて、沖田が顔を上げる。その視線を受けて俺も沖田を見下ろした。青い目がじっと俺を見ている。
妙にキラキラとしている。そうしてふと気付く。
思えば、こうやって青空の下で沖田を見たのは初めてかもしれない。以前も会う時は交番の中だったし、記憶を無くした沖田を見つけたのも夜だった。
光に照らされた沖田は男にしては色が白く、輪郭が思った以上に幼い。
(こうして見るとただの子どもだな)
なんとなくこそばゆくなって少し乱暴にその頭を撫でた。沖田がポカンとしている。今まで冷たくあしらってきた俺の態度が急変して驚いているのかもしれない。
けどそういう俺自身が一番驚いているのだから、人生何があるのか分からない。
(大袈裟すぎか)
苦笑する俺の袖をちょんちょんと引っ張って、なんだ?と見れば一心に見上げて口を開く。
「腹減った」
「…お前って、ほんと緊張感とかねぇのな」
勝手に記憶無くしてあやふやな言葉を頼って家に来てこんなになっても欲に忠実で、まったくこっちが呆れる。
呆れるほど自分勝手で、呆れるほど変わらない。
何か食べるか?と問えば大きく頷く、そんなお前の姿もどこか微笑ましく思ってしまって、ほんと、呆れる。
適当な店で適当に飯を済ませてまたアパートの周辺を回ってみた。近所の人にそれとなく聞いてみたが、人との関係が希薄化しているこの時代だ、何ひとつ有力な情報を得ることは叶わなかった。
貴重な休日を潰して何をやってんだかと諦めて帰ろうかと思った、そんな折り、ひとりの女がヒールを鳴らしながら反対側から歩いてきた。毛先にウェーブがかかった髪の色は俺の隣に居る沖田とまったく同じだった。
気付いた女が足を止めて顔を青くする。
「…なんで?」
震える口から発せられたのは風の音に掻き消されそうなほどの、小さな呟きだった。
その声が喜びではなく悲鳴のような声色で、俺は眉を潜める。
「失礼だがアンタはコイツ…沖田総悟の母親に間違えないか?」
「…貴方は誰?」
「土方と言う。近藤さんの知り合いだ」
なんとなく、警察だというのは伏せておいた。
「コイツを拾ったんだが、母親のアンタに連絡がつかなくてな。仕方なく人伝いに聞いてここに来た」
女が唇を噛み締めてじっと沖田を見ている。自分が母親だとは言わなかったが、態度を見る限り十中八九間違いはなさそうだ。
コイツは記憶がないんだ、そう言おうと思った矢先、
「あなたはどこまでも私の邪魔をするのね」
女が忌々しく呟く。
「私はその子となんの関係もないわ。知らない子よ。総悟は死んだの。近藤さんの知り合いって言ったわね? 彼から聞かなかった?」
サラリと俺に視線を移すと、ツカツカとまた靴を鳴らして平然と横を通り過ぎて行く。
慌てて俺は手首を掴む。
「おい!こんな瓜二つな人間は居ないだろう!」
「知らないわ!離して!」
「母親だろっ?!」
「いらない子よっ!!」
あまりにもはっきりとした拒絶に、俺は驚き手を離してしまう。女はぶんぶんと首を振りヒステリック気味に叫んだ。
「もう散々よっ!何を始めようとしたってその子が居るかぎり私は一歩も踏み出せないわ! 縛り付けるの! 思い出すの! 要らないのよ!」
「何を言っているんだ! 母親なら最後まで責任持ち、」
「だから捨てたのになんで生きているの!」
一瞬、頭が何を真っ白になった。コイツが何を言っているのか分からない。呆然とした俺のことはお構いなしに女は沖田をギッと睨んで残酷な言葉を続ける。
「山に行って背中を押したらあなたは底に落ちて行ったじゃない! あの時私の過去は死んだのよ! なのにどうしてあなたが生きてるの! おかしいじゃない!」
「……………」
(なんてことだ)
沖田が記憶を失った原因が、今やっと分かった。沖田は、母親に殺されかけたのだ。
何故この女がこんなにも自分の子どもを嫌っているのかは分からない。分かるのは俺には一生理解出来ないということだ。ふつふつと込み上げてくる怒りに体中が熱くなった。知らない要らない捨てたのと繰り返す女に向かって俺は腕を振り上げた。理性は熱に溶かされ、
「テメッ、」
ぎゅっと。
振り上げた腕の袖を引っ張る感触に、振り下ろす腕が止まる。
見やれば傍らの沖田が俺の腕を掴んでいた。
「離せッ」
振り払おうとしてもぎゅっと掴んだ手は離れない。
女は呆然と沖田を見ながら、「要らないの」と感情のない声で呟いて、涙をひとつ落とした。
とぼとぼと家に帰る。夕焼けに照らされた道路に細長く伸びた影がふたつ落ちる。足取りの重い俺に対して、沖田の足はいつも通り何も変わらなかった。あんなことを言われた当事者より第三者の俺の方がショックを受けているってどうなんだと思いつつ、そんな沖田がどこか救いだった。
「沖田」
名を呼べば、ふと顔を上げて俺を見上げる一心な目。夕焼け色に照らされて赤く輝いている。
「俺、お前のこと何も知らなかった」
沖田が首を傾げて不思議そうな顔をする。どこにも居そうな子どもの顔だ。まだ大人になっていない、あどけない顔。
俺は、こんな子どもの一体何を見て憧れだと言っていたのだろう。どこを見て強いと言って、今の沖田を見て怯えているだの弱いだと決めつけて冷たく接していたのだろう。何も知ろうとしなかったくせに俺は沖田に俺の幻想を押しつけていた。
近藤さんの言う通り、今は記憶を失くした沖田こそが本当の沖田のように思える。自分勝手なのは俺だった。
沖田の母親のことや沖田のことやそれに関しての俺の考え、いろいろ考えて巡りに巡ってでも上手く纏まらなくて、夕日の中でポツリと言葉が落ちる。
「辛いな」
同情染みた言葉に、沖田は、よく覚えてないけど、と前置きをして首を振った。
「捨てられるのは慣れてます」
なんでもない声色の言葉が痛いぐらいに俺の心臓をギュッと掴む。何も出来ない歯痒さにギュッと唇を噛んで、俺は沖田の手を繋いで歩いた。
このちっぽけな存在に俺は何が出来るのだろう。そんなことばかり考えていた。
それから暫くして、俺は近藤さんに電話で沖田を預かると告げた。近藤さんは嬉しそうに頼むぞと言った。
「あと近藤さんにひとつ頼みたいことがあるんだ」
「…なんだ?急に改まって」
「引っ越す前にさ、沖田に「捨てるんじゃないからな」って言ってやってくんねぇかな」
柄じゃないと分かっていたが、言わずにはいられなかった。
近藤さんが言葉を止める。そしてふっと柔らかい息を吐いて言う。ありがとう。どこにでもありふれているような言葉がひどく、今までで一番胸に響いて、妙にくすぐったかった。
俺は沖田と歩いていくことを決めた。