強くなれ。
 そう言って、ギュッと手を繋がれる。
 俺も強くなるから。
 そう言った、真っすぐと前を歩く男の横顔を、俺は見る。
 土方さんが言っている言葉の意味はちっとも分からなかったけれど、その言葉は俺の中に深く残った。


ムーンスト


「行ってくる」
「…いってらっしゃい」

 土方さんと暮らし始めて3週間が経った。土方さんは近くの交番で働いているが決まった休みもなく、朝出て行ったり夜出て行ったりと不定期な毎日を送っている。大変だなと思いながら俺はいつも玄関まで見送る。
 土方さんが仕事に行っている間俺は何をしているのかと言えば、暇を大安売りするほど、何もしていない。
 大抵は覚えた家事をこなしぼんやりとしている。何か興味があることが出来たら言えよ、それをやればいい。土方さんはそう言うけれど、テレビや雑誌で何を見ても、何ひとつ興味を持てなかった。

(俺は何が好きだったんだろう…)

 持て余した時間の中、気が付けば俺は記憶の海にどっぷりと浸かっていた。奥底に眠っている物を見ようとして、けれど行方が分からず引っ張り出すことが叶わないまま気付けば日は夜へと姿を変えている。
 俺が覚えていることと言えば、まず目を開けると木の枝に囲われるようにぽっかりと月が浮かんでいる。泥臭い土の臭いと湿った木の葉の感触に、自分が今地面の上に大の地に寝転がっているんだと分かって、それしか分からずまた眠りにつく。次に起きた時は月も星も覆い隠す木の姿もなかった。天井が広がっていて、ただ呆然とその木目を眺める。
 俺は山裾に広がる老夫婦に拾われた。山で倒れていたんだよと言われ、名前と家を聞かれて、はて俺は誰だろうとその時になって漸く自分のことが何ひとつ分からないことに気付いた。分からないと首を振ると、ふたりは驚いていろいろと聞いてくれたがどれひとつ俺はまともに答えることが出来なかった。

「帰る場所はないのかい?」

 そう問われて、何か妙に引っかかるものがあった。はっきりとではないが、「ここに来い」という声が風のように俺の中で響いていた。そしてその声に誘われるように俺はここに来た。

(俺は誰だろう…)

 窓の前に立てば眩しいほどの青空が広がっていた。
 俺の存在のようにひとつつつけばそこからパリンと入って粉々に壊れてしまうような、硝子のように薄い冬の空だった。
 記憶を無くしてからというもの、俺の中にはぽっかりと大きな穴が空いている。体と心が別々に動いているようだ。直結せず遠く、自分のことを他の人のように見ている感覚。窓に触れれば伝わる冷たさ。それさえも現実味を失っている。

(外に出よう)

 青空を見ていると、その先に求めているものがあるような気がした。
 街に出るのは禁じられていた。出掛けるのは近くのスーパーぐらいで、街に行っては行けないと再三土方さんに言い付けられていた。行くのは俺が一緒に行ける時だけだとまで言われる。
 何故かと問えば、前の俺がヤンチャだったから街に行けばその手の奴らに絡まれるだろうとのことだ。全く覚えのない俺がへぇと上の空で返事を返すと、そうじゃなきゃ警察官のお前と俺が知り合うはずがないだろうと頭をこつかれた。
 行く用事もなければ必要もなかった。ただ漠然と、俺は街に行こうと思った。それしか考えられなかった。
 街に行って土方さんに会いに行こう。流れる雲を見て、そう思う。




「待て、沖田!」
「逃げんのかよッ!」

 路地裏を駆ける。街に出てぼんやりと歩いていたのが悪かったのか人通りのない路地裏を歩いていたのが行けなかったのか、三人の男たちにばったりと出会った俺は今、逃げるのに必死だった。
 男たちは俺を見るなりニヤリと笑って、久しぶりだなぁ沖田、と馴れ馴れしく俺を呼ぶが、その笑みから親しみなんてものは感じられない。嫌な予感がしてゾワリと粟立った悪寒に従って、俺は一目散に駆けた。男たちが罵倒しながら追い駆けてくる。逃げてよかった、心底そう思う。

(怖い)

 そんな言葉がひとつ胸の中に沸き起こると、蝕むように次々と広がっていく。追ってくる全てから逃れようと必死に足を動かした。こわいこわいこわい。

「どこまで逃げるんだッ!」

 罵声が飛ぶ。逃げる。冬の風が冷たい。

 『帰る場所はないのかい?』

 こんな時に何故か老夫婦の言葉が頭の中に木霊する。

(帰る場所はある)

 ガチャッと鍵を開けて寒いから入れと言ってくれ人がいる。
 温かい部屋に招き入れてくれた。
 手を握り強いなと言ってくれた。
 ぼんやりと月を見上げていた時とは違うんだ、帰る場所は、ある。

 ドサッ。

 足が縺れて派手にこけた。手に着いた砂ごと握りしめる。もうダメだと目を瞑り、耳元で声がする。

 『強くなれ』

 その言葉を思い出す。

 『俺も強くなるから』

 真っすぐと目を見つめて言われた声が蘇ってハッと息を飲んだ。何かが駆ける。
 そんなところでへばっている場合じゃないだろう? そう何かが囁く。
 負けるなんてカッコ悪い。何よりこんな姿を見せられない。

(強く、なる)

 目を開いて俺は立ち上がった。後ろからだんだんと近付いてくる足音に振り返って、じっと見据える。
 土方さんは俺を嫌っていた。記憶を失くした俺が嫌いだった。けれど何故か急に向き合うようになって、俺の覚えていない俺の過去を俺よりも怒ってそれごと受け入れて強くなろうと言ってくれた。
 逃げてはいけない。
 その手を振り払ってはいけない。
 あの人は俺に手を伸ばしてくれた、その行為を踏みにじってはいけない。
 手を伸ばせ。
 立ち向かえ。
 逃げてはいけない。

 姿を見せた男たちに向かって駆ける。

「うぉぉぉぉおお!」


 俺は、ここにいる。