天落ちるるはそら。舞い上がってはあお
ピチョリピチョリと滴の垂れる音がする。響いて、散ってゆく。
押し込まれた監獄は今はもう使われていない場所のようだ、所々が崩れ人気のひとの字もなかった。どうやら絶壁にある監獄らしく絶え間なくザァザァと響く波の音が聞こえる。そのせいか冷たい夜風が絶え間なく入り込んできて震えが止まらない。暗くてさびしくて寒い、まるであの時の雨の日のような、そんな錯覚を覚えさせる。
「って、」
少し身を捩っただけで昼間影の奴らに散々殴る蹴るの暴行を受けた体のいたるところが悲鳴を上げて思わず声を飲み込んだ。
両手ごと体を縄で拘束され身動きは取れないし口を開こうもんなら切れた口の中が滲みてもうどうしようもなかった。
処刑は明日だという。他人事のように思い出す。それと同時に「お前は俺たちに捕まえられたのだ」と得意顔で言ってきた三流忍びたちの、耳につく下品な笑い声と見下した顔を思い出して不機嫌に眉が寄る。
(別にお前等に捕まったわけじゃねェってんだ)
本当ならあの男を引き渡した時点でとんずらかく計画だったんだ。あの強欲な秋山が簡単に金を渡すとも思えない、何か仕掛けてくるとは思っていたが俺の腕ならある程度のことには対処できる。自信も俺なりの考えもちゃんとあった。
『総悟!』
しかしその完璧な計画もあの空気を読まない男に名前を呼ばれることで見事に崩れ去った。不覚にも俺は一瞬動きを止めてしまった。
ほら。探れば簡単に思い出せる声に、もう何をやってんだと自嘲気味に笑しかない。昔はそーごってちょっと伸ばしながら言っていたくせに、あんまり変わらない俺と違って背も伸びていっちょまえに男らしくなって、その姿で小さい時とは全然違う低い声で名前呼ばれれば俺は戸惑って動きを止めてしまう。
だから嫌いだった。アンタの声は昔から、苦手だった。
昔、あの崖から落ちた時、ずるずると崖下に引っ張られて一緒に落ちそうになるソイツを見て、ああこれが最後なんだって唐突に理解した。これがこの人との最後なんだ、だからもう別れを言わなければならないんだ、って。
落ちて、空を飛んで、川に飲まれて自分でもああ死ぬんだって記憶が途切れる寸前まで思っていた。
けれど目を覚ましたらちゃんと布団の中で、案外地獄って親切なんだなと感心したものだ。俺は姉上や近藤さんやみんなを心配させたのだから逝くなら地獄だ。
ひとりひとりの顔を思い出して泣きそうになったのをグッと堪えていると、ひとりのじいさんが部屋の中へと入ってきた。白いひげを生やした初老の頑固そうなじいさんだ。俺を見下ろして薄く微笑う、このジジイこそ俺に忍びとしての忍術を叩き込んだ張本人である。
ジジイの扱き方は今思い出しても地獄だった。何度死ぬと思ったことか、何度逃げ出そうとしたかわからない。けれど年老いたと言っても昔は相当名の知れた忍びだったらしく(真意のほどは不明だ)、夜中にそっと抜け出しても一度だって逃げきることは出来なかった。脱走しようと試みた次の日は更なる地獄を見て、そして俺はいつしかその気さえも無くす。
盗み、傷害、放火、なんだってやった。やるしかなかった。生きる為には。
そしてある日、俺は初めて人を殺した。そういう任務だった。
その時のことは、よく覚えていない。
ジジイに飼われ初めて(結局そういう表現が一番合っている)、4年が経った夏、老いてもそのプライドを忘れなかった頑固ジジイは病に倒れてあっという間にこの世を去った。その時の俺はもう一人前の忍びで、人を殺めることになんの疑問もなくなっていた。
ジジイだった灰を山へと還した俺は、内心ガッツポーズを取る。住み慣れた山を下り人に道を訪ねながら名前も知らない土地の地面を駆けてあの村を、みんなが居る俺の故郷を目指した。
姉ちゃんは元気だろうか、近藤さんは今でもあの笑顔を見せてくれるのだろうか。アイツは、あの男はあの後ちゃんと村に帰れたのだろうか。
想像しては心が跳ねた。久々に感じる嬉しさ喜び、目的の場所に近付くにつれあの山から遠ざかるにつれ、冷たいモノから少しずつ俺は人間に戻っていく気がしたんだ。
しかし約4年ぶりに帰った村は、見る影もなかった。
元々山と山の小さな窪みに作られた村だったのだが、俺が訪れたそこにはただ一面に湖が広がっているだけだった。昔遊んだ空き地も蝉がよく捕れた大木も何もかもが水の中に沈んでその姿を変えていた。場所を間違えたのだろうかと思ったが水底に微かに残る家家の面影が確かにここに村があったのだと教えていた。
呆気に取られる俺に近隣の人が教えてくれた。4年前あの大雨の日、俺たちが山の中で迷子になっていたあの日、別の山の一方が崩れすぐ近くにあった溜め池の水がこの村に流れ込んできたらしい。
バケツの底にあったような村だったから飲まれるのもあっという間だった。一瞬だった。誰一人逃げる前にみんな水の底に沈んでしまったよ。
その言葉を聞いて愕然とする。あるものだと思っていた絶対的なモノが実はもうなくてあの時死を覚悟した俺が生き残ってしまった。
(そんな…)
ジジイの元で居た時挫けそうな時、俺を支えていたいつか帰るのだという願いが粉々に砕けた、そんな音を聞いた。
泣きたくても実感がどうにも沸かなくて、涙さえ出てこなかった。がくりと地面に膝をつき、頭を抱えて体を折る。額を地面に擦り付けると言葉ではない声で大声で、叫んだ。
「―――――」
それからはただ毎日を漠然と生きた。野良犬のようにゴミを漁って町を転々とさ迷い、柄の悪い連中にからかわれ袋叩きにも合いながらもそれでも息をしていた。
世界の形がよく分からなくない。けれど死ぬ理由もなかった。生きていた。それだけだった。
そんな時だ。ある男に声を掛けられたのは。
お前は影だろう?金をやるからひとりの男を殺して欲しい、そいつはそう言って手のひらを差し出してきた。
「報酬はこれで」
手の平に乗っていたのは五枚の銅貨、子供の小遣い程度の金だった。それを見やって俺は、晩飯が凌げれればいいかという簡単な理由でその依頼を受けた。
久しぶりに人の命を奪った。
子どもの小遣い程度の金で、俺は人の一生を奪った。
本当にやるとは半信半疑だったその男は依頼が成功したと告げるといたく感激し、どんなツテがあったのか次は財閥の人間から違う依頼を受けた。小遣い程度で受けた依頼が一か月は軽く遊んで暮らせるほどの依頼料に化ける。大金を前にして自然と理解した。
ああ俺は影で生きるしかないんだ。ここでしか俺は必要とされない生きれない。
「頼りにしている」
一度受け入れてしまえば楽だった。
とにかく入ってくる依頼はすべて受けた。たまたま祭の夜店で売っていた狐の面を被って仕事をすると、いつの間にか狐の異名が付くようになっていた。
影は面を付けて暗躍する。その面で名前が知られれば売れてきたプロの忍びというわけだ。
旦那と会ったのはそんな時だった。旦那は犬の面を付けた忍びだった。銀狼、それが彼の異名だった。
といっても付けている犬の面は麻呂眉をした一言で犬と言えないようななんとも言えないふざけた面で、銀狼という名前がどうも浮かんで見えて仕方ない。が本人は犬だ狼だと言って譲らなかった。
旦那とは不思議なモンで妙に気が合った。熱く何かを語り合うでもないしどちらかといえば俺も旦那も淡泊だ。けれど共に居て苦痛ではなかったしむしろ安心する部分もあった。共感するところもそれなりに。そしていつの間にかそれとなく行動を共にするようになっていた。俺も長い間独りだったから誰かと共に居ることで多少なりとも慰められる部分があったのかもしれない。
他人の過去にあまり深く関わろうとしない、そこが俺としても楽だった。根掘り葉掘りさらけ出すのは好きじゃない。
旦那は基本一歩引いた立ち位置を固持している、面倒くさがりな平和主義者だ。しかし落ち込んでいる時や気が滅入っている時、それとなく立ち上がらせてくれる意外な一面も持っている。面倒くさいテメェでやりやがれと言っても結局最後まで面倒をみてしまう人を放っておけないお節介な人柄なのだ。根っ子はしっかりとしていて見た目とは裏腹にわりと熱いものを内側に宿している、曲がったことが嫌いで自分を貫いてつきつめると優しい、そんな人間。
ふと目付きの悪いアイツを思い出した。雨の日、見上げた先、必死に歯をくいしばって最後まで俺を見捨てようとしなかった男。アイツも村やみんなと同じように水に飲まれてしまったのだろうか。それならばいっそのこと、一緒に水の中に落としてやればよかった。度々思い返してわらう。今更だとわかっていても、俺が生きているかぎりまた会えると思い込んでいた。
「なんか西洋と和がごっちゃになったような町ですね」
俺たちが次の仕事場に場所を移したのは初夏の頃。秋山という金持ちが実質実権を握っているような町だ。そんな町には特に仕事が多い。秋山から甘い密を貰おうと媚びる虫が多いからだ。そんな奴らは大体様々な手を使ってのし上がってきたような人間で、多かれ少なかれ恨みや妬みを買っている。小さな弱肉強食の構成図。
だから俺はこの町を稼ぎの場としか見ていなかった。まさかアイツに会えるとは一ミリも。彼はもう俺の中で姉上や近藤さんと一緒に過去の中でしか生きていなかった。
ある仕事を終えてぶらりと昼間町中を歩いている時だった。多くの護衛に囲まれた人間を見かけ、すぐに秋山だと気付く。護衛がこんなに居たのではその中心に居るのが位の高い人間なのだと堂々と言っているようなものだ。そして大っぴらに護衛を見せびらかす野郎は大抵自信家である。
これほどの町を仕切る秋山という人物ににふと興味が沸き下唇を舐めて(いつかはターゲットとする人間かもしれないし)、すでに出来ていた人だかりの間からそっと顔を出して覗いてみる。
少し距離があったが視力なら誰にも負けない自信があった。
だからすぐに気付いた。
護衛に囲まれた男の後ろに居るソイツの存在に。
黒髪黒目、スラリと伸びた背に短い髪。よく知っている人間とよく似た人間がそこに居た。すぐにわかった。あの瞬間落ちる俺に必死に手を伸ばしてくれた、小さい時からじゃれ合うように遊んでいた彼なんだと。分からないはずがない。俺が間違えるはずがない。だって俺は
(生きていた!)
「ひッ、」
「何してんの?」
しかしふと後ろから声を掛けられて最後まで告げることは出来なかった。名前を呼べなかった。振り返ると旦那が居て、その間に秋山とソイツは奥の建物へと入って行ってしまう。
何故秋山とあの男が一緒に居るのか。町人にそれとなく聞いて回り、あの男が秋山家の跡取りなのだということを知るまでにそう時間はかからなかった。
水害で家を失った子どもを引き取ったんだ。人為的なことをしたとアピールしたかったんだろう、秋山は触れ回っていたよ。
団子屋の親父は話好きでペラペラとよく喋ってくれた。なるほど、今のアイツは記憶も自分の名前も覚えていない、秋山連という人間になっているのだ。そこまで知って落胆する。
(なんだかなァ…)
山の中腹にある立ち入り禁止の看板の皿に奥、切り立った崖のすぐ近くに生えた木の枝に寝転がって昼寝がてら、俺は懐古に耽る。
アイツが生きていたという喜びはあの男に記憶がないとわかった時点で消え失せていた。確かに彼は俺の幼馴染みに違いない、けれどアイツはアイツであってアイツじゃなくて、近藤さんのこともお姉ちゃんのこともおばさんもおじさんも俺のことも何もかも覚えていない、形だけが同じ赤の他人なのだ。けれど確かに本人でもある。
ひとつ息をつく。もう何がなんなのかわからなくなってきた。こんなことなら生きているなんて知らないほうがよかった。(本当に?)
そんな時、ふと誰かが近付いてくる足音が聞こえた。枝の上から窺う。そして驚いた。今まで俺の頭を混乱させていたソイツがそこに居たのだ。
ソイツは俺に気付くことなく崖先まで歩みよるとじっと眼下の町を眺めて、そして一歩一歩先端まで距離を積めていく。まるで自ら飛び降りるかのように。
「何やってッ…!」
慌てて体を起こして怒鳴りそうになった。乗っていた木の枝がみしりと音を立ててハッとする。
そうだった、あの野郎は俺のことも覚えてないんだった。ここで俺が出ていって「お前は誰だ」なんて言われてどう説明すればいいんだ。わからない。
本当に飛び降りてしまってもすぐに動けるように身構えて木の上から成り行きを見守る中、秋山は崖のすれすれの所まで進むと、次の一歩…宙へ足を踏み出し―――はしなかった。思ったより高かったのか一時的な衝動だったのか、ソイツはふらふらと一歩二歩後ずさるとどてりと地面に尻餅をつく。
(…なんだよ、驚かしやがって)
安堵の息をそっとつく。ふと安心したからかどんくせーと笑いそうになった。器用そうでその実不器用、昔とどこか変わらないような彼を見て面影を見せつけられて急に懐かしくなって、じんわりとあたたかいものが込み上げる。名前を呼びそうになった。
「死にてーの?」
そして気付いた時にはそう声を掛けていた。
声に気付いた黒髪がこっちを見る。短い黒髪が揺れた。俺はというと顔に表情を出さないように努めるのに必死だった。でも目があった瞬間アンタの名前を叫んでしまいそうだった。
俺の鼓動が自分でも抑えきれないほど高まっていたのをアンタは知らない。俺の体がまさかの邂逅で震えていたのをアンタは知る由もない。
けれど「別に」、と。
胡散臭げに俺を見て、視線を外すソイツの言葉に俺の中にすとんと冷えた何かが落ちる。確かに黒の双眸は俺を見たのに捕らえたのに、どうして目を逸らす。どうして名前を呼ばない。ふざけんな。テメー俺を忘れたとはッ(忘れたんだよ)
「………」
喜びは一瞬だった。ふーんと素っ気なく返す。
コイツが俺を覚えているなんてそんな都合のいい期待していたわけじゃない、そうじゃないけど、逸らされた視線はソイツが俺のことを覚えていないという何よりの証拠だった。試しに初対面という言葉を言ってみるがてんで無反応だ。
見つけたと思った。やっと辿り着けたと思った。俺があたたかい人間へ戻れる場所。
けれどまた世界にひとり残されたような、そんな気がしてならない。