天落ちるるはそら。
生きていた。
ああ生きていた。
思い出した途端改めて心の中で呟いた途端、どうしようもない感情が胸の中を埋め尽くす。手放したあの時濁流に飲まれたあの瞬間、総悟は死んだものだとばかり思っていた。頭が真っ白になって呆然と総悟が消えた濁流を眺めていた。断続的に続く雨の音、崖下から聞こえる水の音、けれどもうあの声は聞こえない、飲まれて消えてもう永遠に聞くことが出来なくなってしまった。
呆然としていた。ふらりと立ち上がってそのまま暫く森の中を歩く。胸の中に広がるのは後悔と絶望とどうしようもない喪失感。やがて尽きた、もう立ち上がるほどの体力も力も気力もなくなってすっからかんになった俺の体。びちゃりと泥っぽい地面に倒れる。雨の音、泥臭い土のにおい、聞こえない声。呟く。そーご。
(そうだ、俺は…)
はっきりと思い出した。地面に倒れて雨の音を最後に俺の意識は途切れたのだ。気付いた時には病院の布団の上で、何も覚えていなかった。
「そーご…?本当に…?」
舌っ足らずに呼んでいた名前を声に出すと、沖田は無表情の顔を少しだけ歪めた。
俺の頭の中に浮かんで消える小さな総悟の姿。
重なった。つい昨日のように鮮やかに広がる思い出記憶の中で、手を振る亜麻色の髪空色の目が俺に教えてくれる。
これは総悟なんだって。
「総悟!」
掴みたくてもう一度確かに生きてるんだって実感したくて拘束から抜け出そうと我武者羅に暴れた。けれど外れない、俺を拘束する両の腕。
それを見た男が鼻を鳴らして笑った。
「沖田総悟。お前も情に流されたか。幼馴染という情に流されコイツを私の手から救い出そうとしたのか?」
「ハッ。冗談」
顔を俯けたまま沖田が吐き捨てる。睨み上げた空色の瞳は底の見えない海のような色をしていた。淀んで冷たい色で俺は思わず動きを止める。
食い入るように見る俺をせせら笑うように沖田は追い討ちをかけた。
「何を思い出したかは知らねーけど、俺の目的は最初っから金でさァ。それ以外に何があるってんだ。アンタの息子を連れ出して身代金要求したらたんまり金が稼げるなんてそこら辺のガキにだってわかりますよ」
「ほぉ。つまりアレはただのカモとしか見ていなかったというのか?」
「総悟…?」
生きていたんだと歓喜に舞い上がる俺に対し、総悟の言葉はぞっとするほど冷たく俺にのし掛かった。
上擦った声を上げる俺を見て総悟はいやな風に笑う。
「アンタが思い出した沖田総悟はもう居ないんですよ。秋山さん」
知らない顔でそう嘲笑う。
結局あの後そのまま引き離されて、俺は広すぎる屋敷へと連れ戻された。
またこの町に戻ってくるなんて。
広い見慣れた部屋に閉じ込められて、俺は寝台に腰掛けるとそのまま項垂れる。総悟の言った言葉が信じられなかった。
総悟は生意気でずる賢くて口がよく回って、幼なじみの俺とはぶつかりあってばかりで、けれど何故か一緒にいると安心した。悪友に近い俺の親友、気は強いが根は優しいヤツなんだって知っている。
なのに何故あんなことを言ったのか、俺には分からなかった。
変わってない、総悟は変わっていない。
頭の中ではそうやって納得しようと躍起になっていた。
けれどどこか奥底でアレは俺の知っている総悟じゃない、俺が忘れている間に変わっちまったんだってせせら笑っている何かがいる。
信じようとする自信が持てなくて項垂れる。理由は何にせよ総悟は金と引き換えに俺を売ろうとした。そんなことを平気でやってのける総悟は知らない。怖いのだ。総悟に裏切られるのが。
(ああもうどうすれば)
総悟は影によって連れていかれてしまった。義父が言うには明後日影の元処刑するらしい。場所も聞いた。部屋の見張りさえどうにかすれば俺は今すぐにでも総悟の元へ行くことが出来る。
けれど助けてあの知らない総悟と会うのが怖い。あの顔で声で目でまた裏切られたらどうすればいい。行く一歩が踏み出せない。まだどこかで総悟を疑っている俺がいる。迷っても迷っても答えは出てこなかった。夜が明ける。総悟の命を奪うカウントダウンが始まる。
空の色は青かった。あの瞳のように、どこまでも。
軒下に無造作に置かれた木の長椅子に横たわりただぼうっと空を眺めていた。近くで繋がれた馬が七頭ほど鼻を鳴らしながら干し草を食べている。家の裏手に人の気配はない。静かに過ごしたい時には絶好の場所だ。ただし他人の敷地内だが。
「暫く見ねーと思ったらまた居やがって。勝手に俺の城に入って来んじゃねェよ」
相変わらず不機嫌そうな声がして懐かしいことだと思う。体を起こすとキセルをくわえた片目が心底嫌そうに俺を見下ろしていた。
馬の臭いが臭くて嫌で部下に全部世話をさせている俺様な馬借の店主は、煙をひとつ吐くとどかりと俺の隣に腰掛けた。
俺が素で居られる数少ない知人のひとりだ。歳も同じぐらいだから友達と言ってもあながち間違いではないだろうが、友達なんて言葉でくくるのは薄ら寒い仲でもあった。知り合い程度がちょうどいい。
「何人の顔見てやがンだ、気持ち悪いヤツだな」
「いや、お前馬借のくせに人を殺してそうな目付きしてンなと思ってよ」
「…テメェ殺されてえのか」
「もののたとえだ」
睨まれて苦笑する。
咄嗟に頭の中に総悟の姿が浮かんでパッと弾けてつい口走ってしまった。俺や高杉の方が目付き悪くて人のひとりやふたり殺ってそうな目付きなのに、総悟の瞳は昔と何も変わっていなかったなと。
(また掴めなかった)
手を空に翳して何も出来ない手を見つめ遠くを見つめた。どこかで高く鳶が鳴く。それをちらりと横目で見た高杉は、即座に鬱陶しいと言わんばかりの顔をして吐き捨てた。
「何黄昏てやがんだ。シケた顔するならどっか行け」
「連れねーな」
「俺がお前を気にかける理由がねーんだよ」
「確かに」
やはり高杉とはこれぐらいの距離がいい。落ち着くとは別だ。楽なんだ。
けれどアイツとは、総悟の隣は何故か落ち着いた。どれぐらい居ても楽だった。記憶を思い出す前も思い出した後だって変わらない。
(何をしたって総悟を思い出す)
もう苦笑するしかない。何を見ても聞いても些細なことであの亜麻色が頭を占めた。気にかけている証拠だった。頭の中でいろんな衝動が駆け巡ってぶつかっている。
「お前、どうやって部屋を出たんだ?見張りが居やがるんじゃねーのか」
キセルの灰を落として高杉が問うた。
空を眺めたまま答える。
「抜け出してきた。気配を悟られないようにするやり方も見よう見真似で覚えたからな」
「あ?誰にだよ」
「別に」
ああまた総悟のことを言ってしまった。無意識だけに尚更たちが悪かった。
曖昧に笑う俺を見て高杉がククッと喉の奥で笑う。
「やっぱ噂は本当だったようだな」
「ン?噂ってなんだよ?」
「お前が影に付いていったって話だ」
その言葉にゆっくりと高杉に視線を向けると、にやにやと嫌らしく笑う片目がいた。
なんだそんな話かと俺はため息と共に吐き捨てる。
「だったらなんだって言うんだよ。」
「ククク。だからお前はおぼっちゃんだって言うんだ」
「ああ?」
「コトの重要さがなんもわかってねー」
紫の瞳を細めた高杉は白い煙を吐く。空に溶かして、言った。
「お前が影の仲間入りしたって巷じゃ結構噂になってるぜ。まあ実際に証拠があるわけでもねーから役所も動きはしねェけど、もし裏が取れればいくら秋山の御曹子っていっても役人はお前を捕まえる気だ」
「……は?」
「まあテメェのことだからそんなことも知らず、のうのうと解放ライフを堪能してたんだろうけどよ」
寝耳に水とはまさにこのことだった。コイツは馬借という職業柄商人や町を出入りする人間と接するだけに情報通で、良い意味でも悪い意味でも本当のことしか言わない。そんなヤツがお前は役所に目を付けられているんだと言う。
目を点にする俺を見て心底小馬鹿にしたような笑みを作ると高杉は続けた。
「けどよかったなー秋山。影が捕まったおかげでお前はただ『影に連れ去られた人質』というテイで済みそうだ」
「…どういう意味だよ、それ」
「そのままだ。影がお前を餌に金を要求してきた、影と息子はなんの関わり合いもないってお前の親父は役所に届け出たらしいぜ。役所も滅多に捕まえることの出来ない影に目の色を変えてやがる。今じゃ役所の連中はお前になんのマークも付けてねェよ」
「……、」
「その影に救われたな、秋山」
救われた?誰が?俺が?誰に?総悟、に…?
どくん。鼓動が音を立てて跳ねる。感じていたはずの違和感が鼓動と共に跳ねる。ぐるぐると何かが激しく駆け巡った。
『俺最強なんで』
『名が通った影が隙を見せるなんてな』
そうだ。そうだった。
5人を相手にしても負けなかった強いあの総悟が、簡単に捕まるはずがないのだ。意表を突かれたとしてもあれほどの技があるなら簡単に抜け出せるはずだ。いつかの時に逃げるのは得意だと言っていた。逃げれたはずだ。
なのに総悟は易々と捕まった。思い出すかぎり捕まってから一度も逃げ出そうとする仕草はなかった。
何故だ。頭を抱えて必死に思考を働かせる。考えろ考えろ考えろ!何か大切なことを見逃しているような気がしたんだ。
『ありがとう』
ふと、総悟が落ちたあの瞬間が蘇った。
そうだあの時、そもそも総悟は何故手を離したんだ? 力が尽きたから?
いや あの時総悟は自分から手を離したんだ。手が滑って落ちたのとは違う、自分から落ちた。
記憶を無くすほど衝撃だった、見ようとしなかったあの時と過去と向き合おうとする。
声が浮き上がってきて息を飲んだ。
「コノ手ヲ離セバ俺ハ助カル」
「その影に助けられたな、秋山」
助けた、助けられた。
総悟が俺を助けた…?
俺は総悟に助けられた?
ゆるゆると顔を上げると見上げた先、青い青い空が広がっていた。あの瞳と同じで穢れのない色がどこまでも広がっていた。総悟の面影がパッと浮かんでパッと散って息を呑む。
何故気付かなかったんだろう。俺が忘れていた間に総悟は変わったのかもしれない。そんなことを考えていた今しがたの自分をぶん殴ってやりたい。証拠がない信じることが出来ないとくよくよしていた俺をひっぱたいてやりたい。なんで気付かなかったのだろう、簡単なことだった。
ただ直接会って俺の目で確かめればよかったんだ。ただもう一度あの手を掴んでやればよかった。
「高杉!」
居ても立っても居られなくて立ち上がって後ろを振り向くと、座ったままの高杉はやっぱりにやついた顔でキセルを加えていた。ククと喉を震わせて、瞳孔開いてるぜ?と茶化してくる。
「お前馬借だから手形持ってるだろ?貸してくれ。行くとこがあんだよ」
「ああ゛?それが人に頼む態度かよ」
「頼むッ!」
勢いよく素直に頭を下げると暫く黙って煙を吹かしていた高杉が椅子から立ち上がった。そしてすたすたとそのまま頭を下げる俺の横を素通りする。
素通りされてえ?と顔を上げて片目を追うと、片目はキセルを喫したまま近くにいた一頭の馬の前に立ってそれを眺めていた。
問う前に図ったように口を開いて高杉が言う。
「見ろよ。コイツは中々上物でな。暴れ馬だがどの馬よりも足が速い。まるで走るために生まれてきたような生き物だ。しかしプライドが高いせいか人を選んで荷を引く馬としては失格だ。コイツは好きだが商売にならねェ物をいつまでも置いておくほど俺はお人好しじゃねェ。俺は馬借だからよォ」
「…で?」
「物分かりが悪ィな。だからお前は甘ちゃんだって言うんだ」
高杉はこれ見よがしにため息を吐くと大袈裟に肩を竦めた。
キセルをくわえ直すと俺の横を通って店の中に戻ろうとする。そのすれ違う瞬間高杉が笑って言った。
馬借に借りるんなら手形じゃなくて馬を借りていけ、と。
驚いて振り替えると高杉は店の暖簾を潜る一歩手前だった。その猫背気味の背に俺は言葉を投げる。感謝と土産に俺の本当の名前を大声で告げる。俺の悪友は建物の中に姿を消しながら似合わねー名前だなとまた喉の奥で笑った。
馬に跨がり風のように駆けた。その場で綱を外し跨るとそのまま町の中を疾走し、門を突き破って門番も追手も過去も今の生活も何もかもを振り切って駆けた。
目指すものはたったひとつ、求めるのも掴むのもひとつだけ。
他のことなんてどうでもいい。
大地を蹴って、俺はアイツに会いに行く。