天落ちるるはそら。
山道には行ってはいけません。
あそこは木も草も高い、一度迷い込むと子どものあなたたちでは帰って来れないかも知れません。
だから行ってはいけませんよ。みんなが心配しますからね。
母や叔母に固くそう言われて育ってきた、しかしその日、俺達は言いつけを破って山道に足を一歩踏み入れた。
いけないことだとは分かっていても、どうしても行かなければならない理由があったのだ。
(空がせまい…)
大人に手を引かれて入ったことはあっても、子供だけで入るのは初めてで、まるで原始林のように生い茂る高い木や草は空を隠して太陽の光も僅かにしか差し込ませてくれなかった。それがまるで山から永遠に出させまいと奥へ奥へと誘うようで、小さい俺達は小さなお互いの手をギュッと握って一歩一歩足を進めた。
風の音も綺麗な小鳥のさえずりも今はただ恐怖心を煽るだけのものだ。はじめは話しをしたり歌を歌ったりと交わす言葉もあったのだけれど、空の色が暗くなるにつれ口数も減ってついにはだんまり。急に鳥が飛び立った音にビクッと心臓が大きく跳ねる。
暗い寂しい怖い。
どれかひとつでも言葉にしてしまえばすぐにでも俺はこの手を離して温かい家へと逃げ込んでしまいそうだ。だから喋りたくても口を開けない。足取りが重くなる。おんなじようにとぼとぼとと歩く隣を見やると、大きくて丸い頭が視線を地面に落としてぎゅっと口を横に結んでいた。
いつも元気が有り余るぐらいはしゃいでいるのに、その顔からは明るさが消えていた。
不安なのだ。山道じゃなくて、それ以上にいろんなものがコイツに重く冷たく圧し掛かってこんな顔をさせている。
(俺がしっかりしなくちゃ)
そう変わらない歳なのにそいつのそんな顔を見ると不思議と自然にそう思ってしまう。手を繋いでいないほうの手をギュッと握りしめて、逃げ腰になっている自分を叱咤しながら引っ張るように山道を進んだ。
花がいるのだ。
風通りがいいところに咲く花がある、それを取ってお姉ちゃんにあげるんだ。
そうすればきっと病気も良くなる。
もっと笑ってくれる。
今にも駆けて行きそうな勢いで興奮気味にそう話してきたのは昼のこと。
体の弱い姉とふたりで暮らしているそいつにとって、たったひとりの肉親は何よりも大切な存在だった。
その姉の病に効く薬草の花が山の中にあるらしい、山向こうの町とこの村を行き来している行商人の話を偶然聞いて、今すぐ採りに行ってくるのだと言うや否や踵を返す小さい体は風のように山の中へと走り去ろうとする。慌ててとめた。
「ちょ、ちょっと待て!山に子どもだけで入ったらどうなると思ってんだよ!」
「そんなこと言ったって誰もそんな花はないって信じちゃくれねーんだよ!だから俺が行くんだ!」
「ばか!冷静になれって!」
「離せッ!ねーちゃんが苦しんでるのにじっとしてしてられるか!」
後ろから羽交い絞めして押さえつけてもバタバタと必死にもがいて叫んで俺のほうがお手上げだった。
いつも一緒に居たからこうなれば何を言ったって聞かないのは知っている。こう見えて頑固者なのだ。どうしようか迷って、迷った挙句にひとつ息を吐く。諦めの溜息だ。俺が折れるのもいつものこと、必死な姿にまたほだされた。
「わかった。俺も一緒に行くよ」
そう言った瞬間それまで暴れていたのが嘘みたいにぱたりと止んで大きな目をぱちぱちとさせてこっちを見たそいつの顔が、なんだか可笑しくてしょうがないなーという気分になる。
ふたりで行けばなんとかなると思っていたのだ。
少なくても俺はこいつより地形は詳しいし、何度か大人と山道に入ったことはあるから全く道がわからないというわけでもない。
それに花が見つかっても見つからなくても夕暮れ前には戻るという約束だったのだ。見つけるまで帰らない!と渋るそいつにお姉ちゃんが心配するだろと言えば途端に大人しくなった。こういうところはいじらしい。
日が沈む前に帰るはずだった、そのはずなのに空を見上げると完璧な夜空でもう右も左もわからなかった。
迷わない自信はあったのだけれど、いつの間にか道から外れてしまっていたらしい。星が出ていれば方角だけでもわかったかもしれないが生憎雲に隠れて薄く月が見える程度だった。
「仕方がない、今日はここで寝よう」
「…うん」
ちょうどいい木の畝を見つけてそこでふたりで丸まって夜を過ごした。
花も見つけられない帰れなくて姉にも心配をかけてしまう、しょんぼり縮こまって垂れていたまあるい頭に、陽が出れば山を下れる、それにもしかしたら村の人たちが探しに来てくれるかもしれないだろと励ました。
俺も心細かったがひとりじゃないからわりと平気だった。ああやっぱり俺が着いてきてよかった。こいつひとりだったらどうなっていたことやら。心の中で安堵して丸くなる。ふくろうや虫の声を聞きながらの夜は初めてで新鮮でこんな時でも心がはしゃいだ。眠る時も繋いだ手が暖かくて、身を寄せ合うようにして眠りについた。でも楽天的な考えはそこまでだった。
一夜を過ごし迎えた次の日、飛び込んできた光景は断続的な音が続く白い世界。
雨だった。
ザァァァァ。
(疲れた…)
腹が減って、もう動くこともままならない。足だって泥がまとわりついたみたいに重い。疲れた、口を開けばそれだけしか出てこない
雨は今まで見た中で一番の土砂降りだった。バケツをひっくり返したみたいとよく言うけれど、バケツどころか海でもひっくり返したんじゃないかと思うほど強く長い終わらない雨だった。
待てども待てども止まない雨、初めはじっとしていた俺たちだが、いつまで経っても木の畝の中に居るわけにもいかず自力で道を探すことにした。
雨のせいで地面がぬかるんでいる。服が濡れて重い。足を止めてしまえばもう二度と動かせないような、そんな錯覚を覚える。
俺もそいつも話さないんじゃなくて話せないほど体力が限界で、寒さに吐く息が白みがかっていた。繋いだ手も雨の冷たさに温度も感触も消え失せて、もう繋いでいるんだか繋いでいないんだか曖昧でよくわからない。
「あ」
そんな手が短い声と共にぱっと離された。
森を抜けたと思ったら森と森の間に亀裂が入ったような崖になっていて、深い崖下には濁流が流れているようだ。
危ないから戻ろう、そう思い踵を返した時だった。
振り返るとまあるい頭がたたたと崖のほうへと走っていく。ぎょっとして慌てて俺もその後を追った。
「あそこ!ほらあそこに花がある!」
「やめろって!あんなところの花取れるわけがないだろッ」
崖から今にも身を乗り出しそうとする興奮気味の体を抑えた。視線を向けた先そいつが指差す先に確かに見慣れぬ花が一輪ある。しかしそれがあるのは崖の斜面だ。無理だ。
それなのに疲れて理性の働いていない小さな体はなかなか諦めようとしなかった。腕をがっちり握って離さない俺に焦がれて、地面に落ちていた太くて長い木の枝を拾うと、ほら!と俺に見せつけてくる。
「じゃあこの端を持ってたらいいだろ!俺がこの棒を命綱代わりにして花を取ってくるから!」
「アホなこと言ってんじゃねえよ!無理に決まってんだろ!」
「俺頑張るから!」
青の瞳が一心に俺を射る。
危ないことも無理なことも無謀なことも知っていた。知っていたはずなのに疲れて危機感が機能しなくなっていたのだろうか、大丈夫だと強く言われて俺は何も言えなくなる。
俺が手を離さなければ大丈夫だろうか。
木の枝を見てそう思う。
コイツが落ちそうになっても俺がこれを持って手放さなければコイツが落ちる心配もないか。もう安易な考えしか浮かんでこない。
「一回きりだろ」
結局、許してしまった。
油断するとすべてを持って行かれそうになる。まあるい頭が俺が持つ木の棒に捕まって、崖の斜面に足を掛けて降りて届きそうで届かない微妙な距離の花に必死に手を伸ばしている。その度に体が揺れて重みがずっしりと増した。手を離してしまわないようにするので俺は必死だった。
「まだか…ッ?」
「あと、少し…!」
触れそうで触れられない、掴めそうで掴めない、揺れる体を木の枝ごと落としてしまいそうで歯を食い縛る。
そんな俺たちを嘲笑うかのように雨はさらに激しさを増して俺たちに降り注いだ。手の感覚がなくなってきた。やばい。地面に体をくっつけて片手は棒を握って、反対の手は崖の淵に掛けて自分の体も落ちてしまわないように支えて早くしろとただ願う。歯を食い縛って見ていた先で小さな白い手が花を掴んだ。
「と、取れた…!」
「―――――ッ!」
声とともに、突然空が光った。雷が落ちたのだ。
一瞬真っ白になって次いで空気を割いたようなけたたましい轟音が耳元で響いた。それに驚いてびくっと肩が跳ねる。その瞬間気が緩んで棒を握っていた力さえもつい緩めてしまう。
ずるっ。
「うわ、」
「ッ!」
ふっと緩んだ衝動で掛けていた足が外れてそいつは宙ぶらりんになった。花を持った手も棒を掴んで必死に落ちまいとしている。俺も咄嗟に淵に掛けていた手も離して慌てて両手で棒を握り直した。棒を持つところがギリギリで上手く力が入らない。上半身をやや崖から乗り出すようにしてなんとか引き上げようとするが、腕の力だけで引き上げることは出来なかった。そんな体力も力も当に尽きた、でもこれを手放すわけにはいかない。気力だけで持ち上げようとする。でもその度に逆に引き摺られて支えのなくなった俺の体はずるずると崖下へと重力に引っ張られてしまう。体の下で欠けた土がパラパラと落ちた。
(このままじゃ俺も落ちる…!)
どうしようどうしようどうしよう。
必死に考えて考えて考えても一向に打開策が思いつかない。というより頭が全然回らない。
小さい体が疎ましかった。
力のない自分を恨んだ。
どれだけ思考を走らせても結局ひとつの答えしか導き出してこない。違う違う違うそれは嫌だもっと他にいい考えがあるはずだもっと他にほかに。
コノ手ヲ離セバ俺ハ助カル。
(――違うッ!!)
「―ねえ、」
「…なに」
黒い思考を必死に振り払っていると雨の中でも通る声が、ふと聞こえた。
見やると棒に捕まって宙ぶらりんになったそいつが大きな目で俺を見上げていた。
目が合って、そいつがゆっくりと笑みをつくる。
(ナンデ笑ウノ?)
そんな風に穏やかに笑う場面じゃない。切羽詰った状況なのになんで、何故笑う?
不気味だった。言い表せない嫌な予感がした。口を開いて言葉を発する前にそいつが口を開いた。
「戸棚の中に入ってた饅頭食ったの俺です」
「…なんのはなし?」
「ほら前におばちゃんにつまみ食いしたって怒られてたじゃん?あれ実は俺が犯人」
「そんな話今はいいだろ」
「――くない、」
「え?」
「よくない。今言わないともう言えなくなる」
「弱気なんてお前らしくねーじゃん――ッ、」
ずいっと重みが急に増して俺の体がまた崖の下へと引っ張られた。歯を食い縛って手を滑らせて仕舞いそうなのに耐えていると、また場にそぐわない声が落ちた。
「近藤さんフラれてへこんでた」
「だから今はそんな話、」
「本当は俺が慰めてあげようと思ってたけどアンタが近藤さん元気付けてやってよ」
「………」
なんとなく、途中からわかっていた。
「サド丸にも餌やって」
「もう黙れ」
「アイツ寂しがり屋だからなあ。アンタと一緒で」
「だから、」
「あと姉上にもよろしく言っといてください。絶対。頼んだからな」
「―――おいッ!」
そんな話、聞きたくない。黙れ。ちょっと待ってろ。今にいい考えが浮かぶから。もしかしたら誰かが助けに来てくれるかもしれないだろう? だからちょっと黙ってお前はただ棒にしがみ付いていればいいんだよ。俺ならまだ頑張れるから。だからだからだから
そんなさよならみたいな言葉は聞きたくない。
「ありがとう―――」
雨の中に落ちた、そいつから聞く初めての感謝の言葉。でもこんなことなら一生聞きたくなんてなかった。
棒を掴んでいた両手を自らパッと離して谷底に落ちていく。花もそいつも空に舞う。酷くゆっくりに見えた。息を呑んだ。咄嗟に棒を手放して手を伸ばすが届かない。なんでどうして待っていなかった届かない掴めないやめろやめろよ待てよ!
叫んだ。
「――――――ッ!!!」
何かを掴むようにして飛び起きた。叫んだ。でも声は出ない、違う、名前が思い出せない。
ぜえぜえと肩で息をして必死に足りない息を吸う。背筋に気持ち悪いものが張り付いているようだった。びっしょりと服が濡れている。
ここはどこだろう? 見渡してこの町で坂田がとった部屋の一室だと知った。どうやら沖田が運んできたらしい。いやそんなことよりも。
「今のなんなんだ…?」
両手で頭を抱えて夢の尻尾を掴もうとする。ずきずきと頭痛がした。記憶がごちゃごちゃとこんがらがっている。息苦しい。あれはなんだ。昔?忘れてしまった記憶?じゃあアレは誰だ。俺は何をした。手放した?何を。大切な―――なにを…?
記憶を引っ張り出そうとする度に頭が壊れそうだった。
(…やめてくれ…)
膝を抱えてぎゅっと目を瞑る。思い出せない。それとも思い出したくないのか、もうそれすらも何もわからない。分かりたくない。頭が痛い。
絡み付いてくる記憶を必死に振り解こうと目も耳も遮断する。
それでも窓の外から聞こえてきた、雨の音。ここでも雨が降っていた。
俺はあの時何かを失くしたのだ。漠然とそう理解した。手放してしまったのだ、あの瞬間。そして確かに叫んだ。呼んだ。落ちていったそいつの名前を。
でも
「わかんねえ」
今の俺にはなにもわかんないんだ。
呼びたくても呼べない思い出せない。
まるでたった今起こったように鮮明に見せ付ける埋もれた記憶の夢は、何度も何度も俺にあの瞬間重みが消えた最悪の一瞬を見せ付ける。何度も何度も、俺に失わせる。その度に俺は呼べない名前を呼んで、伸ばせない手を伸ばそうともがく。もがいて、でも、その先に誰がいるのかわからない。