天落ちるるはそら。
「起きたんですかィ」
窓の外は雨がしきりに降り続いていた。その音が聞こえる。
時間が経つにつれ騒いでいた心も落ち着いてきたが、それでもまだフラッシュバックする記憶の連鎖に俺は布団の上で呆然としていた。声が聞こえてきたのはそんな時だった。
振り返るとドアに寄っかかっていた沖田が俺を見るなり眉をひょいっと寄せて、ヒデェ顔ですねと言って薄く笑った。
「悪夢でも見たって顔してますぜ。真っ青だ」
「…思い出した」
「何をです?」
「俺…、昔、手を離したんだ…」
「…誰の?」
「わかんねェ。思い出せねェ。でもすげー大切だった。手離したくなんてなかった」
ありがとう。さいごに聞いた夢の中の声が、頭の中で木霊する。雨の音とそれが重なって、責められているような気がした。
両手で頭を抱える。何故あの時棒じゃなくて手を握ってやってなかったんだろう、そうすれば俺は間違いなく手放したりなんてしなかった。
「思い出せないのは思い出したくないからか、それとも思い出すに値しない記憶だからか」
沖田の嘲笑いを含んだような冷えた声が聞こえた。
ゆっくりと顔を上げると冷えた青い目が薄暗い中こっちを見ていた。
馬鹿にされたようで噛み付く。
「思い出したいに決まっているだろッ!」
「そうですかィ?まァいいや。支度しなせェ、今から出掛けやすぜ」
それだけ言うと沖田は部屋から去ってしまった。
だから俺は沖田が去り際に言った言葉を雨の中に聞き逃してしまう。
どっちにしろアンタにはもう必要のない記憶だと。
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連れて来られた場所は敷居の高い料理屋だった。
影に依頼する依頼人はだいたいがこんな店に軽々と出入りする財閥ばかりだと前に聞いていたから、多分依頼人に会うのだろう。でも依頼を受ける時、沖田は俺を連れて行こうとしなかった。いつも知らない間に依頼を受けて気付いた時には任務だと言われる。それが今回は俺も同伴だ。どういう風の吹き回しだと問うと、まあアンタもそろそろ時期ですからと沖田が意味深に笑う。いやにその笑みに違和感を感じたが、特に何も言わなかった。
一番奥の離れまで来ると沖田が足を止めた。扉に綺麗な彫り細工がされている。一般客の部屋とは違う、見るからに特別待遇を要する人間を迎える部屋だった。
豪華な扉を開き中に入るように促される。なんだか重苦しい雰囲気だった。やはり人の命をやり取りする会話だけに、いつもこんなかんじなのだろうか。
部屋へと入りキョロリと部屋の中を見回す。そして奥にひとりの人間が居るのに気付いた。
わりとがたいのいい男が窓の外に目をやってこちらに背を向けている。その姿をまじまじと見つめ、そして目を瞠った。
忘れられない背中だ。何度あの背を追い掛けたのか分からない。何度アレに、認めてほしかったかわからないほど求めた、人間。
「義父上、」
上擦ったように呟くと、背を向けていた男が振り向いた。
思い描いた通りの顔がそこにあった、俺を見て、短い自由だったなと口角をつり上げる。
「なんで…」
「そこの影がお前を売ってくれるそうだからな」
「……え?」
何を言われたのか分からなくて隣の沖田を見ると、沖田は真っ直ぐと男に目を向けたままだった。俺と視線を合わせようとしない。
「沖田―――、ッ!」
ガタンッ。
完全に気を抜いていた俺は突然後ろから押さえつけられて床に沈んだ。なんだ?と動く範囲で頭を動かして確認すると、男がふたり俺の上に圧し掛かって右手と左手をそれぞれ押さえつけている。見たことのある顔だ、義父の側近の連中だとすぐにわかった。
振りほどこうとしても岩で出来ているんじゃないかと思うほどビクともしない。無理やり立たされる。口元を歪ませてふっとせせら笑う沖田を見て、そこでやっと俺が売られたという意味がわかった。沖田が俺をこの男に引き渡したのだと。
裏切られた。
理解した瞬間腸が煮えくり返るほどの怒りを覚えた。
信じていただけにあまりにもひどい仕打ちだ、目の前が真っ赤になるとはこのことなのかと実感する。
「このヤロウ…ッ」
野犬のように低く唸ると沖田はそこでやっと俺を見た。無表情な、感情の窺えない顔で何を考えているのか分からない。分かりたくもない。
何故だと問うと沖田はふいっと顔を逸らし視線を男に戻した。そして何を言ってんだとさぞ当たり前のように言われる。
「前に言ったでしょう。俺は一銭の得にもならないことはやらない主義だって」
「金のためだって言うのか…?」
睨む俺を見て男が低く愉快そうに笑う。
「そうだ。その影はお前を人質に私に金を要求してきたのだ。実に強欲で合理的だと思わんか?お前を連れて行ったのも所詮は金の為だったということだ」
「そんなことはどーでもいいんで早く金を渡してくれやせん?」
「ああ、そうだったな」
男が顎に手をかけてまた薄く笑う。ただやり取りを見ていた俺はその笑い方にハッとした。
しばらく外で過ごしていたおかげで肝心なことを忘れていたのだ。
そうだ。何よりも欲高く金に執着するこの男が簡単に金を手渡すはずなんてない。これは罠だ。
気付いた瞬間俺は裏切られたことを忘れ、逃げろと口を開こうとした。
「おき、」
しかしそれより先にパチンと男が指を鳴らす。その音を合図にどこに居たのか窓や天井裏から出てきた五人の人間が一瞬で沖田を取り囲んだ。それぞれ奇妙な面を付けている。この雰囲気、影だとすぐにわかった。
沖田は平然とした顔で五人の影をゆっくりと見渡すと口角を吊り上げた。
「へェー。影がこんなに居るとは。雇ったんですかィ?」
「そうだ。忠実なんて金で買える世だからな。お前も含め非道の影も金がすべてだというわけだ。所詮は人の子よ」
「ヒデェなァ。そんな奴等を雇う金があるんだったら俺にくれた方が何倍も世に貢献できますぜ。店ごとケーキ屋を買い込んで景気を良くしまさァ」
「戯言を」
「金は巡り巡ってのモンでしょうよ」
沖田は笑って体勢を低くすると構えのポーズをとった。五人が一斉に飛びかかる。沖田は獲物を持っていない。両腕を拘束されて身動きが取れないのがもどかしい、捩るようにして今すぐにでも沖田の側に駆け出そうとする俺の体を逃すまいと両脇の男たちが拘束する腕の力を強めた。その痛みに俺は眉を寄せることしか出来ない。
沖田は飛びかかってきた影にまず綺麗な蹴りを鳩尾にひとつ食らわすと、軸足を捻り隣に居た別の影の肩にひらりと飛び乗り、そのまま首の付け根に踵を落として床に叩き付けた。落ちた小刀を拾うと隣ではなくその隣に目標を変え意表をつき小刀で仕留める。ものの数十秒の鮮やかな技だった。そんな場合じゃないのに目を奪われる。残りはたったの二人になった。沖田に警戒してなかなか寄ってこない。沖田が一歩近づくと一歩下がる。やはり強い、こいつは何よりも気高い忍びなのだと実感する。それをこんな状況でもなぜか誇らしくも思った。
沖田は得意とする速さで一気に距離を詰めると呆気に取られるほどの早業で残りの奴らも床に沈めた。(可哀想にひとりは窓の外に蹴り落とされた。)
沖田が床に沈んだ影の背を踏んでニヤリと笑う。そしてゆっくりと佇んでいる義父に視線を向けた。身を屈める、臨戦体勢だ、気付いて息を呑む。沖田は約束を違えたこの男を殺るつもりなのだと気付いたからだ。
確かに欲望にまみれた男だ。多くの人間に憎まれているだろう、人を利用価値でしか計らないそんなヤツだ。身をもって知っている。けれど、でも、あの施設で俺を選んで家を与えてくれたたったひとりの恩人でもあるのだ。それでも俺の義父なのだ。
気付けば叫んでいた。
「やめろッ!総悟!」
びくりと肩を震わせて沖田が、ゆっくりと俺を見た。青い空色の瞳が水面のように揺れる。歪んで、一瞬泣きそうな顔をする。
手を伸ばしたい衝動に駆られた。腕を掴まれているのを忘れていた。ギュッと羽交い締めにされてやっと思い出す。伸ばしたくても伸ばせない、降れたくても触れられない。ああ、これってなんだかあの夢みたいだ。
そう思った矢先のことだった。
ドンッ!
「――ッ、」
いつの間にいたのか、六人目の影が沖田に近寄り背中から押し倒した。派手な音を立てて沖田が床に倒される。後ろ手に腕を拘束された沖田はチッと忌々しそうに舌打ちをした。
「名が通った影が隙を見せるなんてな」
考えていた通りに事が運んだと言わんばかりに愉快そうに男が笑う。細い腕を掴まれ捕まったまま、身を起こして座るように促された沖田に、男は近寄りいやらしく目を細める。
「綺麗な顔をしているな。このまま捨て置くのも惜しい。どうだ?剥製にして私の書斎にでも飾っといてやろうか」
顎に手を掛け上を向かせ、舐めるように沖田を見る。
汚い手でそいつに触るンじゃねェ。瞬間俺の内側で黒い野犬が吠えた。俺が噛み付く前に沖田はその青い瞳を細めるとペッと男の顔に向かって唾を吐く。
「アンタの部屋に飾られるぐらいなら爆弾抱えて木端微塵に弾け飛んだほうが何倍もマシだぜ」
「くくく。報告通り強情なヤツだな」
男はポケットから取り出した布で唾を拭くと沖田の頬を殴った。渇いた音が響く。
「沖田ッ!」
思わず叫ぶ。
ギラリと鈍い色を潜ませて男を睨む沖田を、男は蔑むように見下ろした。
「お前のこと調べさせてもらった、沖田総悟。戸籍がないものだと思っていたが、まさか死亡届けの中にいるとはな」
「……え?」
思ってもいなかった言葉に目を瞬いた。沖田は顔色ひとつ変えなかった。
「川岸に倒れているところを老いた忍びに拾われ、忍術を仕込まれて育ったのだろう? 全部知っている」
「………」
「ああそうだ。この影に隙を作らした褒美に教えてやろう。この沖田総悟はお前と同郷だ」
「………同郷…?」
ズキンズキンと鼓動が音を立てて跳ねた。早鐘は耳元で聞こえるようだった。
同郷、つまり俺と同じ村で育った人間ということだ。名前はおきた、そうご。
「そーご」
呟いた瞬間、時が止まったような気がした。ピタリとピースがハマった気がした。
ぎぎぎと信じられないものを見るように沖田に視線を映す。
そうだ、手放したあの時、叫んでいたのはこの名前じゃなかったか?
見上げてありがとうと呟いた目はこんな空色じゃなかっただろうか?
「総、悟」
呟くと沖田は俯いた。サラリと亜麻色の髪が揺れた。
その瞬間今まで覆っていた靄が途端に雲散して、記憶がはっきりと形を持って俺の中に広がった。
ああ、ああそうだ。思い出した。
コイツだ。
あの暗い夜道の中、迷った森の中、月の光に照らされて明るく輝く髪色を見て太陽みたいだと思ったのは、確かに紛れもないこの色だった。
生きていた。