死神そーご
ザァァと夜風に木の葉が揺れる。鳥も人の声も無いけれど、どこかで季節外れの虫が鳴いている。そんな音がする。静かな夜の音が聞こえる。
覚悟していた衝撃はいつまで経っても襲ってこなかった。ギュッと瞑っていた瞼を恐る恐る開くと、俺はゆっくりとぎこちなく上を見上げる。
頭上の数センチ上にそれはあった。
見るんじゃなかったと後悔しても遅くて、その光景にまた息が止まって俺は、身動きどころか息を紡ぐことさえ出来ない。助かったと言うにはまだ早い、額の数センチ上、髪が当たるか当たらないかの距離に鋭い刃があった。降り下ろし斬る手前で止まっている光景に生きた心地が全くしない。声すら出ない。もしかして俺はもう死んだのだろうかと冗談じゃない考えが頭を過る。
ガキは刀をその位置で固定したまま目を猫にしたまま、言った。
「…まさかアンタ、本当に死にたくないんですかィ?」
「あ、当たり前だろッ!なんで俺が死にたいなんて思わなきゃなんねーんだよッ!思ったことも言ったこともねぇつーの!」
少年は俺の言葉に眉をひそめて不思議そうな顔をした。なんでもいいから早くこの刀を閉まってくれないだろうかと俺は願うが少年は構わず続ける。
「それは可笑しいですぜィ。だってアンタが俺にお願いしたから俺ァこうして召喚されたんです」
「だから俺はお願いなんかしてねえんだって!」
少年はますます眉を寄せる。
「…アンタ石碑の前で俺にお願いしたでしょう?」
「石碑?」
「俺を祀った石碑です」
俺は頭をフルに動かして、己の行動を振り返る。
ポツリと、古びた石碑が頭の中に浮かんだ。そういえばコイツが出てきたのもあの石碑の前だっけ。「御参りしたでしょ」とも言っていた。
(御参り…)
確かに俺は石碑の前で独り言を言った。確かに言ったけれど。
「『俺を助けてくれ』とは言ったが、俺を殺してくれとは言っていねぇ」
「ほら。やっぱお願いしてんじゃねェですか。俺に「助けてくれ」って頼むことは殺してくれってことですぜ。俺ァ死神なんで助ける術なんてそれしかありやせんからね」
「だから!死神だって知らなかったんだって!つーかあの石碑にも“神”としか書いてなかったっつーの!死神だってわかってたら神頼みなんかするかよ!」
少年はそこでやっと刀を下げて、ぱちぱちと目を瞬く。そんな仕草をすると幼い顔立ちなだけあって妙に子どもっぽく見えた。俺も凶器が頭の上からなくなって緊張の糸がほんの少し緩む。そっとため息をついた。
少年が目を丸くして言う。
「嘘だー」
「嘘じゃねェよ。死神なんてどこにも書いてなかったって」
「300円賭けますかィ?」
「遠足のおやつかよ」
顔立ちが西洋の人形のような子どもは、刀を鞘に納めるとパンッと手を叩いた。
その音を聞いて一瞬きすると、目の前に広がっていたのは何故かこのガキと会った石碑の前で俺はまたもや呆然とする。
この子どもから逃げ惑っていたので、俺はここよりずっと川上に居たはずだ。それが目を開ければスタート地点で、なんだコレと目が点になる。まるで狐に化かされたみたいだとも思った。
その自称死神狐はどこに行ったとキョロキョロと見回すと、あーあと間の抜けた声が聞こえて振り返る。夜目にも明るい髪をした子どもは高い草に紛れて石碑の前にしゃがんでいた。
「だーいぶ年月が経っちまったみたいだ。確かにアンタの言う通り文字が欠ちまって読めやしねェ」
「だからそう言ったじゃねェか」
「ふーん。参っちまったなァ」
少年はカリカリと頭を掻いてそう言った。
体勢を立て直し、ここぞとばかりに俺は言い募る。
「結局テメーの勘違いだったってことだろ。俺は関係ねえ」
石碑の前にしゃがみこんだ少年は何も言わなかった。容姿が良いだけにこの世のものじゃないような、そんな気がしてくる。
今更ながらに、もしかしてコイツ幽霊じゃないだろうかとふと思い当たってゾッとした。
夜風が冷たい。
ソイツは何も言わない。
俺は恐る恐る摺り足でガキと距離を取る。いやいやいや怖くなったわけじゃねーけど、いきなり襲ってくるかもしれねえし。つーか実際刀を振り回してきたし。危ねェ野郎だから遠ざかるんだ、そうだろう十四郎。
誰とも言わず自分自身を弁解する。俺の味方は俺しかいない。
少年から一歩二歩と距離を取ったところで俺はぐるりと踵を返した。そしてそのまま走り出そうと足を踏み出す。
が。体を反転させたところで目の前に少年が居た。立ってじっと覗き込むように俺を見ている。腰を抜かすかと思った。ひきつった叫び声を無理矢理飲み込む。
石碑の前に視線を移すが、そこには誰も居なかった。ギギギとブリキの玩具のように顔を戻す。どこまでも平坦な顔をしたソイツが居た。
まさか本当に幽霊じゃ…。
叫び声を上げる一歩手前の俺を無遠慮に覗き込んで少年は淡々と言う。
「いやーそれがそういうわけにもいかねェんですよ。『第一条 一度聞き入れた頼みは絶対也。叶え達成するまでは戻るべからず』。つまりアンタが俺を死神とは知らずに神頼みしちまったとしても、俺がそれを聞き入れて現世に出てきちまった時点で契約は成立。アンタが俺に命を奪われるのは確定してんでさァ」
「ンな馬鹿な…」
もう頭が追い付かない。回路がショートしてしまった俺に向かって、死神はにんまりと嫌に笑う。
「だから俺はアンタの命を貰うんでさァ」
死神はちょっと背伸びをして俺の首に手を回すと、チュッと音を立ててキスをする。
俺の意識はそこまでだった。暗転。