雪の花、雪の傷痕


 目が覚めるといつの間にか夜になっていた。しとしとと雨が降っている。覚えもなく、俺は屯所の廊下に立っている。
 記憶を巡らしてもどうしてこんな場所にいるのか分からなかった。俺は確か近藤さんに殴られて気絶したはずだ。

「そうだ、刀、」

 唐突に思い出して咄嗟に辺りを見回すが、それらしいものは全くなく、人の気配もしなかった。世界は終わったのかと場違いな考えが頭の中を過ぎって、妙に納得してしまう。しかもよく見ると体がうっすらと透けるように淡い光に包まれて薄くなっている。まるで幽霊のようでぎょっとした。
 もしかして気絶している間になにか事件でもあって、俺は死んでしまったのだろうか。自分でも気付かないまま、眠りの延長線上に命を落として、こうしてさ迷っているのではないか。妄想が俺を駆り立てる。

(最悪だ…)

 日頃から望む侍の最期とはかけ離れた情けない終わり方に俺は愕然を通り越して呆れるしかなかった。それじゃあ近藤さんは無事なのだろうか? 真選組は? 俺は何故死んだんだ? 気になることは幾つもあるはずなのに、頭がぼんやりとしていて上手く考えがまとまらない。全部上の空で、心の中でアイツもどこかでさ迷っているんじゃないかと視線で探す俺がいて今度こそ愕然とする。吹っ切れていないのは俺のほうだ。

 胸の奥に詰まった気持ちの悪い消化不良のものを吐き出すように、息を零す。佇んでも仕方がないから自分の部屋へと足を向ける。そこで部屋の真ん中に白い布を顔に掛けられた俺がいたら覚悟して事実を受け止めようと思った。


 部屋には本当に、思いがけない人物が居た。布を掛けられた俺ではない、しっかりと立っていつもの夜着を纏い煙草を喫している俺と、それと対面してもうひとり求めて止まない姿が。


「――総悟、」
『お前、どういうつもりだよ』
『何がです』

 ふたりは体の透けた俺などお構いなしで話を進めていく。どうやら俺が見えていないらしい、俺と総悟の姿をしたそれらは小雨の音をバックにお互いを睨みあって、俺は置いてきぼりを食らう。思考は相変わらず考えることを放棄していた。バカみたいに呆然と、もう久しく見ていない総悟の姿を見ていた。
 亜麻色の髪に大きな空色の目、細身の体だけれど気は強気を通り越して傲慢、芯のしっかりとした侍、間違えるはずのない声。総悟だ。俺がそう言っている。それ以外の何者でもない、置いていかれて知った大切な存在だと俺が。


『お前体調悪いんだろ。飯も碌に食わねェで、病気か? 医者には行ったのか?』
『いきなり呼び出すからなんだと思えばそんなことですか。心配しなくても俺はいつも通りですぜ。アンタは俺の母ちゃんかよ』
『総悟真面目に聞け。妙な咳しやがって、俺にくだらない嘘が通じると思うなよ』
『嘘も何も、事実です』
「………」


 ああ。分かった。

 これは夢だ。まだ総悟が居た時にこうやって、総悟を問い詰めたことがあった、その時の記憶がこうして俺に夢を見せているのだ。記憶を思い出しなぞればその通りに幻想のふたりは動いて口を開いて言葉を放ってゆく。間違いはなさそうだった。

(ひどく嫌なものを見せやがる)

 俺はこの時、総悟の異変に気付いていたがこじらせた風邪程度にしか思っていなかった。まさか重い病気を患っているとは一ミリも考えず休んで養生するように忠告しただけで。この時もっと疑ってかかっていればと、失って何度後悔したことか。総悟の違和感などそこら辺に転がっていたのに、俺はそのひとつひとつをしっかりと見ようともしていなかった。その結果総悟はひとり虹のように掻き消えた。

 俺は確かにさ迷っているのかもしれない。過去に囚われ後悔し、後戻りの出来ない瞬間を変えようと水の上の虫のように必死にもがいている。ああそうだ。俺は、総悟の居なくなった世界を認めたくなかった。

 この後のことも覚えている。見つめる中、夢の中の俺が口を開いて残酷なことを言った。


『体調が戻るまで捕物には参加するな。隊は俺が預かる』
『そんな…ッ!』
『副長命令だ』
『ッ!』


 やはり記憶の通りに動く、総悟は俺の言葉に強く下唇を噛み締めると俺の胸倉を掴み、勢いよく壁に押し付けた。ドンっ!と音を立てて夢の俺が息を詰まらせる。この時背骨がものすごく痛かったのを覚えている。けれどそれ以上に、総悟のほうが痛そうに泣きそうに顔を歪ませて、縋るように、俺の胸倉を掴んだまま項垂れる。震えた声で総悟は言う。

 アンタが、俺の場所を奪わないでください、と。


「――ごめん、」

 なんで、なんでこの叫びをもっと聞いてやらなかったのだろう。総悟はこんなにも訴えていたというのに。
 総悟は、もう自分が長くないことを知っていたのだ。それでも刀がすべてだった。ここにいる理由も隊長でいる理由も近藤さんを守る為にも力が必要で、必死に努力して掴み取った場所だった。だからこうして刀を振るう機会を奪われるのを総悟は最も嫌う。ずっと近くで見て知っていたはずなのに俺は。
 それがイヤなら早く治せ、そんな風に楽観的にしか思っていなかった。最低だ。ばかだ。病を患ってもここに立っていられるたったひとつの存在理由を、俺が奪ったのだ。
 俺が追い詰めたようなものだ。総悟のことを思って最善な策を取ったつもりで、その実ふかくふかく傷つけてばかりだった。


『総悟、俺はお前に未来の真選組を任せたいんだよ』


 去り際に吐いた慰めの言葉も、総悟にとってはどんなに残酷な言葉だったのだろう。



『――俺には未来なんてないんだ…』


 もっともっと真正面から聞いて受け止めてやればよかった。
 堪らず震えた肩を後ろから抱き締める。詰まった嗚咽が胸を締め付ける。ひとりで泣かせてごめん。口を開けばそれだけしか出てこない。その温もりを、体温を、ちゃんとこの手で掴んで受け止めて抱き締めてやればよかった。今なら出来るのに、夢の中じゃ感触も温もりも何も掴めなくてすり抜けるばかりで、それでもいとおしさは変わらなくて。今頃失うこわさを知る。このまま一生目を覚まさなければ、本気で、そう思った。
 もう手離したくない。